スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

- - -
Sweet Kissing

pattern


現在、海外の素晴らしいイコン画家に、いくつかイコンの制作をお願いしています。


その一つ、ブルガリアのMalin Dimov氏にお願いしていたイコンが完成したとの連絡をいただきました。


icon_sweet_kissing


なんという美しさ!!けわしいお顔をしたイコンが多い中、威厳だけでなく優しさもたたえた聖母子のお顔。繊細タッチと細かく丁寧な衣服の描写。美しい手の表情。もちろん、すべて手描き&手作業です。まさに天的な芸術。伝統的なイコンは、石膏を塗って磨いた板の上に、金箔を貼って磨き、絵はエッグテンペラで描かれます。材料から描き方、描き順、色まで、ひとつひとつに神学的な深い意味があります。人工のものはひとつも使いません。すべて自然界のもの。

イコンのモチーフは、勝手に作ってはダメで、いくつかスタイルが決まっています。こちらは、「グリュコフィルサ(glykophilousa)型」。「グリュコフィルサ」は、ギリシャ語で「優しく抱きしめる人」という意味。「優しい口づけ」のイコンとも呼ばれています。イコンはどこか冷たさがあり、それが神秘的でもあるんですが、このイコンは聖母子が頬をくっつけあって、静けさの中にもアクティブに愛情を表現しているので大好きです!

本当、いつまでも眺めていたくなりますし、深い祈りへと招いてくれる美しいイコンに仕上がりました。到着が楽しみです!神に感謝。

イコン comments(3) -
Faith



pattern



久しぶりに、スーダッツ神父のお説教を訳してみました。
(  聖痕を受けているスーダッツ神父の簡単な紹介記事はこちら。  http://reginapacis.jugem.jp/?eid=18  また、CATEGORYから「スーダッツ神父」をクリックしてもらえれば、他のスーダッツ神父の説教記事も読めます。)

今回は、「信仰」についてです。「信仰」とは何か?分かっているようで、実際には信じることができていない自分がいることに気付くと思います。スーダッツ神父の力強い言葉は、「信じる」という挑戦を私たちの心に突き付けます。確かなことを信じるのではなく、神に信頼して不確かなことを無条件に信じること。これが信仰だと。そして、信仰だけではダメで、聖霊の働きがそこになければいけないと。

元の動画はクロアチア語で、それに英語の字幕が付いているのですが、その字幕の英語が意味をなさない部分が多々あったため、一部、私の解釈を通して訳したり、元の訳を削除している部分もある点は、ご了承ください。


--------------------------------------------------------

親愛なる皆さん。

家でひとり静かに福音を手にし、イエズスの時代に行われた奇跡について読むとき、また、使徒言行録において初期の教会について読むとき、私はこう自問します、「主よ、私たちはどうしてしまったのでしょう?今日、信仰はどこへ行ってしまったのでしょう?」と。

イエズスの時代のような目に見える奇跡が、なぜ今日起きないのでしょうか?イエズスがラザロを死者の中から甦らせたような奇跡が、なぜ今日起きないのでしょうか?

死者を甦らせることを、私は「復活」とは言いません。なぜなら、「復活」は世の終わりにもたらされるものだからです。イエズスはラザロを死者の中から甦らせましたが、ラザロはいつの日かまた死ななくてはなりません。しかし、埋葬されて三日経った人の墓の前に立ち、「イエズスの御名によって起き上がりなさい!」と言える人がいないのはなぜでしょう?「イエズスの御名によって起き上がりなさい!」と呼びかけると、実際に人が甦るような、目に見える神の奇跡が今日起きないのはなぜでしょう?

なぜこれらのことが今日難しすぎるのでしょう?なぜキリストを私たちの心に迎え入れることが難しいのでしょう?一体私たちはどうしてしまったのでしょう?

信仰が弱いのです!あまりにも弱いのです!

私たちは、そのようなことが実際に起るということを、信じることさえできていないのです。「たしかに、奇跡の話を耳にすることは素敵なことだけど、それはキリストの時代の話でしょう?」キリストが復活され、今や生きておられる今日でも、このようなことが起ることを信じれないでいるのです。これが一つ目の理由です。

信仰が弱い二つ目の理由。イエズスがキリストであると公言しても、私たちは殴られるようなことはありません。イエズス・キリストを認めても、パンに飢えるような状態に追いやられませんし、職を失うこともありませんし、学校で子供たちがいじめられることもありません。他の地域ではどうかわかりませんが、私たちの住む西側諸国では、キリスト者でいることがあまりにも簡単なのです。しかし、キリストに仕える者は、誰よりも先に人々にとっての行く道を照らす光であり証人でなくてはならないのです!

ある人たちが、内戦時代のヴコヴァール ( 訳注: クロアチア東部にある人口約3万人の町。内戦時代、非常に被害を受けた町のひとつ。 ) での出来事について証ししてくれました。数ヶ月間、彼らは地下に隠れていましたが、当時、悪を行う者たちが、爆弾をあらゆる穴に投げ入れていました。あるとき、空気孔を通じて爆弾が内部に侵入し、半径10m程の掩体壕内に落ちました。しかし、爆弾はまったく違う場所で爆発し、誰一人ケガすることなく、全員が生き残りました。

私は彼らに尋ねました。「そのとき、皆さんは何をしていたのですか?」と。彼らは応えました。「神に祈っていました。」ですから、彼らが生きながらえたことは、驚くことではありません。

けれども、私たちの心の中にあるものが邪魔をします。なぜ私たちはいつも心を抑圧するのでしょう?重い病気、事故、早すぎる死。その時、私たちは神に向かって叫び声を上げていますか?なぜ願ったものが与えられるよう、切実に祈り求めないのですか?主のドアを叩けば、彼は与えてくれるのです!神は与えるのです!「祈るときには疑ってはいけない、そして祈り求めていることを信じなさい。」とハッキリと聖書に書かれているではありませんか。祈るときには、熱心に祈り、決して疑ってはなりません。そして、神は与えてくれるということを知っていなくてはいけません。

信仰とは何でしょう?みなさんは、信仰とは何だと思っていますか?人は誰でも、人生において何らかの確実性を求めようとしています。それは、安全な避難所を持つことかもしれませんし、明日はどうなるかを知ることかもしれません。確実さを手に入れるために、しばしば神や宗教的なことを利用することがあります。そして、私たちはそれを「信仰」と呼んでいるときがあります。

けれども、信仰とは、確実なことではなく、不確かなことです。見出すことではなく、見つけるための過程です。よく見つめることであって、定義することではないのです。信仰とは「挑戦」です!そして、常に新しいものなのです!神は常に新しい方なのですから!そして、信仰は、いつも「今」です!いつも「創造的」です!信仰は、あなたたちを確実性の上にあぐらかかせるものでは決してないのです。

イエズス・キリストを殺害したのは誰でしたか?誰が私たちの神を十字架につけましたか?不信仰な者たちでしたか?いいえ、彼を殺したのは、信心深い人たちなのですよ、みなさん!律法学者、ファリサイ派、そしてサドカイ派。彼らは、メシアがダビデの家系から生まれることを知っていました。彼らは、聖書についてあらゆる知識を持っていました。そして、メシアはやって来ました。それなのに、なぜ彼らはイエズスを認めることができなかったのでしょう?

なぜなら、イエズスは彼らが思い描いていた神のイメージにマッチしなかったからです。彼らは、神とはこういう方だという信念は持っていましたが、信仰は持っていなかったのです。メシアが来られたとき、彼は食器を洗わないし、姦通者や徴税人にまで接し、彼らがするようには安息日を尊重されませんでした。その姿に彼らはショックを受けました。「いったいこの男は何を望んでいるのだ?」と。

イエズスは、律法学者やファリサイ派、サドカイ派の人たちに、生き方や考え方を変えるよう求められましたが、彼らは変わることを望みませんでした。だから、「一人の人間が死ぬ方が、国全体が苦しむよりましだ。」と彼らは言ったのです。「彼を殺してしまおう。この預言者は、私たちが生き方を変えるように強いるのだから。」と。もし彼らが信仰を持っていたのなら、神の独創性に気付くことができたことでしょう。しかし、彼らは自分たちの勝手な思い込みに縛られていたため、メシアを殺してしまったのです。

物事を確信することは、確実性を私たちに与えてくれますが、信仰は不確実さの連続なのです。最もすばらしい例は、聖母マリアです。彼女に大天使ガブリエルが現れ、「あなたは、神の御子を身ごもるでしょう。」と告げます。マリアはどう答えましたか?「けれど、どのようにしてでしょう?私は男の人を知りませんのに。」この答えから、マリアは子をもうけるには、夫が必要だということを知っていることが分かります。すると天使は言います。「いと高き方の力があなたを覆います。」と。

しかし、マリアは天使の語っていることの意味を、すべて理解していたのでしょうか?彼女の人生に対して、どんな確実性があったというのでしょうか?マリアは、ただこう答えます。「お言葉の通りになりますように。」と 。ごらんなさい、これこそが信仰です!

分かりますか?この「お言葉の通りになりますように。」という言葉で、マリアは自分で自分の死刑宣告にサインしているようなものなのですよ。当時、夫がいないのに妊娠している女性は、見せしめに町の広場で石打ちの刑にされたのですから。ここに生きた信仰があります!

その後、エジプトへの逃避行があったり、いなくなった少年イエズスを神殿に探したりと、いろんな出来事が次々と彼女を襲います。最後には、十字架の下に立ち、御子が死んでいくのを見守らなくてはいけなかったのです。イエズスのすべてが消え去り、すべてが今、十字架上で死につつあるのです。どれほど力強い信仰が必要なことか!

信仰とは、神からの超自然的な贈り物です。もし、信仰の贈り物を切に祈り求めるなら、聖霊の贈り物を祈り求めるなら、神は信仰を与えてくださいます。しかし、信仰を持つことを切望せず、また、祈り求めないのなら、信仰をいただくことはできません。

今晩、私たちは病人のために祈ります。みなさんの中には、ガンや心臓病、麻痺といった、重い病気に冒されている方々もいるでしょう。エイズに苦しむ患者さんもいます。統合失調症やうつ病、過食症や中毒症といった精神的な病の中にいる方々もいます。しかし、私たちは、熱心に祈ります。

あなたの信仰があなたを救うのです!あなたの信仰が!これは、私が作り上げた話ではありません。聖書を見てください。どのようにしてイエズスが働かれたかを。彼のもとを訪れ、「イエズス、見えるようにしてください。」、「立てるようにしてください。」、「健康にしてください。」と願う人々に、主は信仰を持つようにとハッキリ言われます。「私がそれをできると信じるか?」と。彼らに信じることを要求されるのです。イエズスという存在と彼の力を信じることで、主は奇跡を起こし癒すことができるのです。一方、彼の生まれ故郷であるナザレでは、村人たちの不信仰のため、奇跡をおこなうことができなかったとも書かれています 。そして、彼らの不信仰を驚かれたとも。

「信じるなら、すべてが可能だ。しかし、信じないなら、神である私でも、あなたたちに何もしてあげることができない。」とイエズスはおっしゃっているのです。そして、この事実を、主は掟に変えられました。

しかしながら、慈しみ深い神は、あなたが信じなくても、他の人があなたのために信じるならば、助けてくださいます。百人隊長が近づいてきてイエズスに言います。「主よ、私のしもべが死につつあります。」と。イエズスは答えます。「では、行って、癒してあげよう。」しかし、百人隊長は言います。「いえ、いえ、とんでもない!私が行けと言えば、部下は行きます。私が来いと言えば、部下は来ます。ですから、一言だけ。一言だけおっしゃってください。そうすれば、しもべは良くなるでしょう。私はあなたを我が家にお迎えするに値しない者です。」

死の淵にあるしもべは、百人隊長が何を願いに行っているかなど、まったく知らなかったことでしょう。その死につつあるしもべがではなく、百人隊長が信じたのです。イエズスはなんとおっしゃいましたか?「イスラエルのどこにもこのように偉大な信仰は見たことはない。」と。

ミサにおいて、私たちは聖体を拝領する前に、百人隊長の言葉を口にします。「私はあなたをお受けするにふさわしい者ではありません。一言だけおっしゃってください。そうすれば、私の魂は癒されるでしょう。 (訳注: 日本の教会では、「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠の命の糧、あなたをおいてどこへ行きましょう。」と唱えます。 )」と。信仰をもってこの言葉を言うのなら、この信仰を持ってミサにあずかるなら、そのミサだけですべての人は永遠に癒されるでしょう。私たちは一体いくつのミサにあずかってきましたか?何千回ミサにあずかってきましたか?しかし、私たちに信仰がないのであれば、ミサは私たちの内に何を残してくれるでしょうか?

娘の回復のために祈ったあの母親を見てください。彼女はユダヤ人ではありませんでした。彼女は言いました。「先生、私の娘は病に伏しています。」と。ところが、イエズスの言葉は挑発的でした。いえ、イエズスは彼女の、より大きな信仰のために挑戦したと言うべきでしょう。イエズスは言いました。「私はイスラエルの家のためだけに来たのだ。あなたはイスラエル人ではない。犬に食べ物を与えるのは良いことではない。」と。彼はその母親を犬と呼んでいるのです!!しかし、親が子供たちのために祈るとき、彼らは信じ、必要としているものを叫び求めます。親たちが信じて祈るからこそ子供たちが癒されるという素晴らしい場面を、私はこれまでたくさん目撃してきました。さて、この母親は何と言ったでしょうか?「ですが、犬たちも主人の食卓からのおこぼれをいただきます。」これを聞いてイエズスは何と言いましたか?「あぁ、婦人よ!家にお帰りなさい。娘は癒された。あなたの信仰は偉大だ。」

イエズスが言うように、私たちにはからし種ほどの信仰さえもあるでしょうか?今日、ここには2〜3千人ばかりの人が集まっていますが、皆さんは信じることができますか?このミサが癒しと解放をもたらす祈りになるということを信じることができますか?私たちの必要としているものすべてを神が与えてくださり、彼があなたの心、体、人生をしっかりと掴んでくださることを信じることができますか?癒しや助けを必要としている人々のため、みなさんは信じて熱心に祈りを捧げることができますか?今晩、みなさんは信じることができますか?聖霊が来てくださいますように。天からの恵みが降り注ぎますように。

現代の社会に目を向けてみてください。様々な研究所や薬、科学があります。しかし、人々は、神が慈しみ深く、そして、惜しみなく与えてくださるものと、これらのものを置き違えてしまっています。旧約の時代、人々はどのように生きていたでしょうか?何が起るにしても、常に神ありきでした。雨が降るなら、雨を降らせておられるのは神でした。干ばつが起るなら、干ばつが起ることを許されるのも神でした。戦争に勝つなら、戦に勝たれるのは神でした。戦争に負けるなら、兵士の心を弱めて負けるようにされるのも神でした。何が起きるにしても、神が第一の理由でした。人々は神の臨在を強く感じていたのです。

今日、たとえば頭痛がするとき、私たちはアスピリンを飲みます。しかし、頭痛が治るように跪いて祈るという考えを誰も持たないのです。祈る代わりに薬を飲み、気分が悪いときには病院に行きます。たしかに社会は発展し、薬や科学やありとあらゆるものがあります。それは事実です。けれども、神も癒すことができるのです!アスピリンがあなたを癒すのではありません。アスピリンを通して神が癒してくださっているのです。神が私たちに動機を与えてくださるのです。神が医者を通して癒してくださるのです。神が薬を通して助けてくださるのです。

合理主義が教会や人々の間に入り込んでしまいました。「奇跡はもはや重要なものではない。このこともあのことも心理学的に説明できるのだから。」と。しかし、奇跡とは何でしょうか?奇跡とは、自然の法則を破るような出来事のことではありません。違います!科学的にいつの日か説明されるようになって、もはや奇跡じゃなくなるようなことのことではありません。たとえば、日食は中世においては奇跡と見なされていました。今日では単なる自然界の現象です。その時には説明がつかない自然現象は奇跡ではありません。違います。

奇跡とは、個々人の人生における深い体験を通して、神のなさることに気付くことです。言い換えれば、神が直接的に私たちの人生をとらえられるということです。

ある人にとってそれは、夕方のミサや祈りであるかもしれません。ある人にとっては、夕暮れの美しい景色だったり、子供の誕生だったりするかもしれません。あるいは、ある人にとっては、愛する人の死や家族を襲う不幸であるかもしれません。これらのことが人々を神に近づけるのです。そう!それこそが人生における真の奇跡です。

もし神なしに奇跡が起きるのだとするならば、私たちの人生に神は何のかかわりもないということを意味します。ですが、私は神に信頼をおいていますし、キリストを信じています。だからこそ、人生の旅路を共に歩んでくださるよう、私は神を探し求めているのです。たとえば、苦難の中にあるときは、神に泣き叫びます。物事がうまくいっているときには、神とともに笑います。幸せなときには、神はわたしのすぐそばにいてくださいます。神を褒め称えたいときには、神に賛美を捧げます。神に私と共に歩んでいただきたいのです。人生において彼を感じていたいのです。それがインマヌエル、つまり私たちと共におられる神なのです。

信仰について語るとき、同時に、信じるだけでは「限度がある」ということをお話しすることは大切なことでしょう。

みなさんは、就寝時、明日という日が来ることを信じて床に就くでしょう。明日が来るかどうか恐怖にあふれていては、眠ることはできないでしょう。車を運転してどこかへでかけるときも、みなさんは何かを信じているからそうできるわけです。それは、自分の運転能力に対する自覚だったり、道路の状態が安全だと知っているからだったり、車の性能に対する信頼感だったり。みなさんは何かを信じることができるから、行動することができるのです。

ですから、「自分には信じるものがない」と言える人は、一人として存在しません。何かを信じることのない人生は不可能です。なぜ私がこのことを語っているのかを説明しましょう。

最も力強い信仰は、イエズス・キリストのペルソナに対する信仰です。しかし、信じるだけでは足りません。使徒たちは、復活したイエズスを目の当たりにしました。聖書には、イエズスが彼らに40日間現れたと書かれています。40日間です。では、なぜ弟子たちはイエズスを信じていたのに、まだ恐れの中にいたのでしょうか?彼らは実際には信じていなかったのでしょうか?

そんなことはありません。彼らは信じていました。疑い深いトマスも、主の御傷に指を入れて、最終的には信じる者となりました。使徒たちも聖母も、主の復活の証人となり、すぐに信じました。けれど、彼らはなぜすぐさま行動し始めなかったのでしょうか?なぜファリサイ派やサドカイ派、律法学者たちから逃げ、最後の晩餐の高間に隠れ続けたのでしょうか?彼らは信じる者たちであったのに、なぜ彼らの信仰は神のために働く力をもたらさなかったのでしょうか?

信仰を持っていても、もうひとつの存在が必要だからです。信仰は、聖霊によって実を結ばなくてはならないのです。彼らはイエズスが語ったように、御父の約束を待っていたのでした。「真理の霊であり、弁護者である聖霊が来て、あなたたちにすべての真理を教えるだろう。私が御父のもとに行くことは、あなたたちにとって役となる。なぜなら、私が去らなければ、聖霊を送ることができないからだ。」

彼らは50日間待たなくてはならないことは知りませんでした。ですが、彼らと同じことを私たちも行うように招かれているのです。まず、聖霊に祈り、力強い信仰を祈り求めること!次に、神がその贈り物を与えてくださるまで、忍耐強く待つこと。そして、聖霊による力づけ。みなさんは信じることはできても、みなさんの心に聖霊が火を灯してくださらなければ、まだ神の御名において働く準備はできていないのです。ですから、待つことは良いことなのです。聖霊を受けたという確信なしに行動し始めても、失敗するだけでしょう。神ではなく自分を讃えているからです。神の御業ではなく、人の行いをしているだけだからです。だから、多くの司牧プログラムや素晴らしいアイデアが成功に結びつかないのです。そこに聖霊は存在せず、命のない言葉だけが紙の上にあるだけですから。

私たちは、要求の多い時代に生きています。みなさんはそれぞれ仕事を持っていますし、日常の中で福音を生きることは簡単ではありません。けれど、福音を生きることが唯一の道なのです。どれだけ困難であったとしても、福音を生きることが唯一の救いなのです。熱心に、毎日、途絶えることなく、力を尽くして祈ってください。神があなたに力を与えてくださるよう祈ってください。信仰、忍耐、祈りの恵み、そして聖霊の賜物を主が与えてくださるよう、祈ってください。霊的に必要なものを与えてくださるよう、祈ってください。祈ってください!みなさんは神なしに生きることはできないのです。秘跡を生き、聖書を読み、ミサにあずかって、自分自身を聖霊の力で養ってください。すべてのことを、聖なるものへの畏敬と信仰を持って行ってください。すべてを神に感謝してください。

感謝について語って終わりにしましょう。みなさんは、祈り求めていることに対して、いつ神に感謝し始めますか?たとえば、白血病に苦しむ我が子の回復のために祈っているとします。あなたは、祈り、祈り、切実に祈っています。祈り求めていることにして、いつ神に感謝し始めますか?

想像してみてください。とある裕福な人が、ここにいるひとりひとりに百万ユーロの小切手をくれています。あなたは、まず銀行に走って行って換金し、紙幣を数えてもらい、戻って来てからその人にお礼を言いますか?それとも、もらってすぐに「ありがとう」と言いますか?通常であれば、もらってすぐにお礼を言うでしょう。

では、私たちはいつ神に感謝するでしょうか?先ほど、奇跡について語ったときに、このことに少し触れました。神は、間違いなく祈りを聞いてくださると確信するとき、そして、祈りを聴きいれてくださったら、私たちが思い描いていたものよりさらに良いものを与えてくださるだろうことを理解するとき、神に感謝し始めてください。誰かのために祈りたいと思うとき、みなさんは、想像の中ですでに相手が健康に恵まれている姿を思い浮かべるでしょう。その思いを相手の人の中に満たしてください。神がその人の中にいてくださるように、熱心に信仰を持って祈ってください。そうすれば、神に感謝し始めることは、難しくないでしょう。神にはすべてが可能ですから。

愛する皆さん。私たちの人生と永遠性は、私たちの目の前にあります。そして、私たちには悪魔たちが持ちえなかった時間があるのです。ですから、皆さん、神への信仰と神にすべてをゆだねる道を歩んでください。聖母がみなさんのために取り成してくださいますように。アーメン。

スーダッツ神父 comments(5) -
St. Catherine Laboure
relic


pattern



こちらは、ご縁があって我が家に来ていただくことになった、聖カタリナ・ラブレ(19世紀のフランスの修道女。聖母の出現を受け、あの有名な「不思議のメダイ」を作るように頼まれる。)の聖遺物(第1級)です。聖人の骨の欠片となります。(証明書にはex ossibus(骨)とあります。)

写真で見ると、聖遺物容れは小さく見えるかもしれませんが、かなりしっかりとした作りで、ずっしりと重いです。美しい刺繍が施され、中央に聖人の遺骨が静かに置かれています。聖遺物容れは、聖体顕示台のように非常に荘厳な容器が多いですが、こちらは、信徒がキスできるための容器のようです。

聖カタリナ・ラブレとは、昔から本当にご縁があります。

まず、古い教会暦では、彼女の祝日とボクの誕生日は同じ。(蛇足ですが、福者ヨハネ23世の誕生日と同じです。)そして、学生時代に初めてフランスに行ったとき、パリで不思議のメダイ教会にお邪魔して、いまだ腐ることなく残っている聖人のご遺体と対面。昔から来たいと思っていたこのチャペルに自分がいることに感激し、かなりの時間、そこで祈って過ごしました。祭壇の後ろにある聖母のご像がすごく美しいんですよね!また、不思議のメダイを通して、クリスチャンじゃない家族も助けてもらっています。

それ以前に、不思議のメダイとは、まだまだ洗礼さえ受けていない、おそらく小学生だった頃から手にしていたのを覚えています。実家のある福岡の大名町のカテドラル。まだ建て替え前の古いお御堂だったとき、横にあったセント・ポールの売店で、青や赤の透明のエナメルを施された美しいおメダイに心惹かれて、小さな聖母のご像と一緒に、優しくて聖人のような祖父(祖父はクリスチャンじゃありません)に買ってもらったように記憶しています。

ちなみに、今の教会暦では、ボクの誕生日は、アレクサンドリアの聖カタリナの祝日になります。どちらも「カタリナ」。「カタリナ」は、ギリシャ語では「Αικατερίνη(アイカテリーネー)」で、元は「καθαρός(カタロス:純粋)」から派生しています。

ボクも聖女たちに習って、純粋な人間になれますように!!!!!

Sancta Catharina, ora pro me!!!!!


天使・聖人 comments(0) -
Eucharist
eucharist


pattern



昨日の主日の福音(ヨハネ65158節)は、聖体に関してほのめかす箇所でした。カトリックの教える聖体の神秘。それは、はたして正しいのでしょうか?

この後、「私の体を食べ、私の血を飲め。私の肉を食べ、私の血を飲む人は、永遠の命を得る。」というイエズスの言葉を聞いたユダヤ人たちは、彼を狂人と見なし、多くの弟子たちも、到底理解できないと主の元を去っていきました。聖書の中で、唯一、イエズスがあからさまに失敗した場面です。

なぜなら、当時のユダヤ人には、とても受け入れられる話ではなかったからです。人の体を食べることなどもっての他ですし、血は「命がやどるもの」。動物の血でも、口にすることを律法で固く禁じられていました。

しかし、イエズスは、去っていく弟子たちを止めませんでした。イエズスは多くのたとえ話をこれまでも話され、その意味するところを、少なくとも弟子たちには説き明かしてこられましたが、ここでは、「待て、待て。このことは、象徴的な意味での私の体について語っているのだ。」とはおっしゃいませんでした。

なぜでしょう?

「文字通り」だからです。

それは、原文のギリシャ語を見ても分かります。古代ギリシャ語には、「食べる」を意味する動詞がいくつかあります。一つは、「φαγω (ファゴー)」。もう一つは、「τρωγω (トローゴー)」。

「φαγω (ファゴー)」は一般的に「食べる」という意味ですが、「τρωγω (トローゴー)」は、より具体的で強烈、実際に食べている状況を表す「むしゃむしゃと食べる、噛み砕いて食べる」という意味です。ギリシャ語において「φαγω(ファゴー)」は隠喩的な意味や象徴的な意味にも使えますが、「τρωγω (トローゴー)」は使えません。

イエズスはヨハネ62351節の間で、まず「φαγω (ファゴー)」を使います。しかし、52節にあるように、それを聞いたユダヤ人たちは、「この人は、どうして自分の肉を食べさせることができようか?」と激しく論じあいます。そこで、イエズスは、彼の語っていることが象徴的な意味ではなく、本当に食べることだということを強調し伝えるため、ヨハネ65458節の間でトーンを上げ、「τρωγω (トローゴー)」を使います。

ちなみに、「τρωγω (トローゴー)」が聖書の中で出て来るのは、3箇所のみ。それは、このヨハネ65458節の間、マタイ2438節、そしてヨハネ1318節です。どの箇所でも、象徴的な意味での「食べる」ではなく、文字通り「食べる」状況でのみ使用されています。

また、「私の肉」というとき、「σωμα (ソーマ、体)」ではなく、より具体的な「σαρξ (サルクス、肉)」という言葉を用いています。福音書の中で「σαρξ (サルクス、肉)」が使われている箇所は、どれも、文字通りの「肉」という意味で使われています。(ヨハネ1:13-14; 3:6 8:1517:2、マタイ16:1719:524:2226:41、マルコ10:813:2014:38、ルカ 3:624:39等)

つまり、聖書が伝えるのは、象徴的な意味のイエズスの体ではなく、実際にイエズスの体を食べよということなのです。それが、最後の晩餐の時、「とってこのパンを食べよ。これは私の体。この杯を飲め。これは私の血。(マタイ262629節等)」とイエズスが制定した聖体につながるわけです。

そして、聖書だけでなく、初期の教会の姿からも、聖体における現存が信じられていたことが分かります。

初代教会の教父の一人である聖イレネウスは、その著書の中で、「パンについては、それは大地から生まれたものだが、神を呼び求める祈りを受けると、もはやふつうのパンではない。この世と天国の二つの実存によって構成された聖体なのである。同じように私たちの体も、聖体をいただくと、もはや朽ちるべきものではなく、永遠の復活への希望を有すようになるのである。(『異端反駁』より)」と述べています。また、ローマから迫害を受けていた初期教会は、「キリスト者は人肉を食べ、血を飲んでいる。」と悪評を流されていたことからも、教会の初めから、聖体におけるイエズスの現存が信じられていたことがうかがい知れます。

パンは真のイエズスの体となり、ぶどう酒は真のイエズスの血となる。カトリックの信仰が教える聖体の神秘は、まさに聖書の教える通りなのです。




護教 comments(5) -
St. Petrus

st_peter



pattern



また素敵な動画を発見しました。聖ペトロの生涯(十字架以降、ローマで殉教するまで)を描いた、イタリアのTVドラマ。


残念ながら日本語吹き替え/字幕はありませんが、簡単な英語吹き替え版なので、英語の苦手な方でもかなり理解できるのではと思います。それに、すでにバックストーリーをほとんどのクリスチャンは知っていますからね!もちろん、ドラマですから、若干誇張や創作部分はありますが、この聖ペトロ役の俳優さん(オマール・シャリフというエジプト系の俳優)、すごく良い味を出してます。人として弱いペトロが、何度も転びながらも、優しく、あたたかく、そして強い教会の礎となっていく過程が見事に描かれています。感動!ケチをつけるなら、ペトロ役以外の方々はイマイチかな・・・。あと、音楽も素晴らしい!モンシニョール・フリズィーナが手掛けているようです。以前、紹介した"Jesus Christ, You Are My Life"を作曲された神父様。でも、まだ教会が世界的なものになっておらず、ユダヤ・ローマ両方からの厳しい迫害の中にあり、命がけで小さなともし火を守らなくてはいけないこの時代。常に死と恐怖との隣り合わせ。自分ならこれほど強くあれただろうか?と自分に問いかけてしまいます。まさに人の力だけでは乗り越えられない逆境。聖霊の働きがあったからこそですよね。そして、信仰を守り残してくれた、使徒たちや初代教会の信徒たちに感謝と尊敬の念でいっぱいです。それにしても、さすがカトリック国イタリア!ピオ神父の生涯をTVドラマ化したものも素晴らしかったですよね。ぜひ、聖ペトロの生き様に心打たれてください!全部で21の動画に分かれています。




天使・聖人 comments(5) -
Mary in the Bible

queen



pattern



聖母マリアの存在の意味を、聖書の内容に基づいて非常に分かりやすく説明している素晴らしい動画を見つけました!目からウロコとはまさにこのこと!!英語の動画ですので、日本語で内容を簡単に整理したものを以下にまとめておきます。聖書は知れば知る程、奥深く、神秘に溢れ、神の御業の不思議さに驚かされます!!!

(動画はこの記事の一番下にあります。)



【 !! 重要 !! 】 以下の二点を常に踏まえておいてください。

1.  旧約は新約の前兆であり、新約は旧約を完成するものであるという点。

2.  最初のクリスチャンたちと古代のユダヤ人たちは、旧約聖書をそらんじており、使徒たちが彼らに伝えていることと旧約聖書に書かれていることとを、簡単に関連づけることができたという点。



------------

マリア: 新しいエバ、すべてのキリスト者の母

------------


創世記とヨハネによる福音書&黙示録は関係しあっています。


■ 「 初めに 」

創世記 1:1 /  初めに・・・

ヨハネ 1:1 /  初めに・・・


■ 「 光と闇 」

創世記 1:5 /  光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。

ヨハネ 1:5 /  光は闇の中で輝いている。闇は光に打ち勝たなかった。


■ 「 水の上に漂う神の霊 」

創世記 1:2 /  神の霊が水の上を覆うように舞っていた。

ヨハネ 1:32-33 /  わたしは霊が鳩のように天から降り、この方の上に留まるのを見た。・・・水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が・・・


■ 「 7日間 」

創世記 /  神の天地創造は7日間

ヨハネ / 

・洗者ヨハネによるメシアについての初めての言及 → 1日目

・ヨハネ1:29: 次の日・・・ → 2日目

・ヨハネ1:35: 次の日・・・ → 3日目

・ヨハネ1:43: 次の日・・・ → 4日目

・ヨハネ2:1 : 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼がおこなわれた。→ 7日目


→ 創世記もヨハネの福音書も、どちらも創造の話から始まります。ヨハネの福音書を初めて耳にした時、当時の人々はすぐに創世記のことが思う浮かんだはずです。


■ 「 アダムとエバ / イエズスとマリア 」

// エバ //

・ エバはアダムの骨の骨、肉の肉。(創世記 2:23)

・ アダムはエバを「Woman」と呼ぶ。(創世記 2:23)

・ エバは悪の天使(サタン)の言葉を聞く。

・ エバはアダムに最初の悪い行いをさせる。

・ エバは信じなかったために呪いを受ける。

・ エバを通して罪と死が人類にもたらされる。

・ エバは生きている者すべての母。

・ 女とその子孫は、サタンと敵対する。


// マリア //

・ マリアはイエズスと骨肉を分けた者。

・ イエズスはマリアを「Woman」と呼ぶ。(ヨハネ 2:4カナの婚姻、ヨハネ19:26十字架の上から)

・ マリアは良い天使(ガブリエル)の言葉を聞く。

・ マリアはカナで最初の栄光ある奇跡をイエズスに行わせる。

・ 「信じた方は本当に幸せ。」(ルカ 1:45)

・ マリアを通して恵みと命が人々にもたらされる。

・ マリアは命の木(=十字架)の下で、イエズスに従い証しするすべての者の母となる。(ヨハネ19:26)

・ 黙示録での女とその子孫と竜との戦い。


→ パウロはイエズスのことを「新しいアダム」と呼びます。上記の創世記との対応、また、エバとマリアの対応を見れば、マリアが「新しいエバ」であることは明白です。イエズスの愛した弟子であるヨハネは、新約を書いた弟子たちの中でも最も神学的に深く、また、イエズスの死と復活の後は、マリアを母として自分の家に迎えました。彼は、30年間イエズスと生活を共にしたマリアと一緒に暮らしたのです。ヨハネは自分が何を書いているのかをよく分かっており、初代教会のクリスチャンたちはヨハネの語っていることを信じていました。(初期教会の教父たちの書物を読んでみてください。)



------------

マリア: 新しい「契約の聖櫃 (Ark)」

------------


聖書の他に、ユダヤの人々が非常に尊んでいたものがあります。それは「契約の聖櫃 (Ark)」です。聖櫃は、旧約において最も重要な物です。決められた寸法を守り、最も貴重な素材と純金とで作るようにと、神は求められました(出エジプト 25: 10-21)。なぜならこの聖櫃は、ユダヤの救いの歴史において何よりも聖なる品々を納めるものであり、神の臨在がこの聖櫃を覆うからです。しかし、残念なことに、2600年前のバビロン捕囚時代に「契約の聖櫃」は失われてしまいました。それ以来、この櫃を見たのはひとりだけ。それは使徒ヨハネです。ヨハネは黙示録の中でビジョンの中で見る聖櫃のことを描写し始めますが(黙示録11:19)、突然その描写をやめ、「Woman」のことを語りはじめるのです(黙示録 12)。なぜか?【 !! 重要 !! 】のポイントを思い出しましょう。


「契約の聖櫃」に納められているものを比べてみましょう。


旧約の聖櫃に納められたものは・・・

・ 石版に刻まれた神のみ言葉。

・ 地上で生きる糧となるマナ。

・ 大祭司アロンの杖。


新約の聖櫃(マリア)に納められたものは・・・

・ 受肉した神のみ言葉であるイエズス。

・ 永遠の命のパンであるイエズス。

・ 永遠の祭司であるイエズス。


では、旧約聖書での描写と新約聖書での描写を見てみましょう。


■ 「 神の臨在がやって来て覆う 」

出エジプト 40:34 /  雲は会見の幕屋を覆い、主の栄光は住居に満ちた。 

ルカ1:35 /  聖霊があなたに臨み、いと高きおん者の力があなたを覆うでしょう。


■ 「 契約の聖櫃/マリアが、私のところにやって来る 」

サムエル下 6:9 /  その日、ダビデは主を恐れて言った、「どうして主の櫃をわたしの所にお迎えできようか。」

ルカ1:43 /  わが主のおん母がわたくしの所においでくださるとは、いったい、どうしたことでしょう。


■ 「 到来によって恍惚となり踊る 」

サムエル下 6:16 /  主の櫃がダビデの町にはいったとき、サウルの娘ミカルは窓から見下ろしていたが、ダビデ王が主の前で跳ねたりくるくる踊ったりしているのを見て、心の中で彼を軽蔑した。

ルカ1:44 /  あなたのあいさつの声が、わたくしの耳に入ったとき、胎内のわが子が喜んでおどりました。


■ 「 契約の聖櫃/マリアは三か月間留まる 」

サムエル下 6:11 /  こうして主の櫃は、ガド人オベド・エドムの家に三か月留まった。主はオベド・エドムとその家を祝福された。

ルカ1:56 /  マリアはエリザベツのところに三か月ほど留まり、そして、家に帰った。


→ 「契約の聖櫃」は神の御言葉を納めるため、純金で作られました。マリアは新しい「契約の聖櫃」であり、肉となられた神の御言葉を宿すための最も純粋で清い器です。旧約の時代、聖櫃を崇敬することは、神を礼拝することをおとしめることではなく、逆に、聖櫃を敬わないことは、神への冒涜だとみなされていました。


神ご自身が神の子羊を与えられたように、神ご自身が新しい「契約の聖櫃」を準備されたのです。ですから、いと高き方の力がマリアを覆う前から、ガブリエルはマリアに「恵みに満ちた者、喜びなさい!」と言うことができたのです。マリアはあらゆる罪の汚れから守られていたのです。歴代誌上の15〜16章では、当時のユダヤ人たちが聖櫃を大いに敬っていた姿を見ることができます。彼らは「契約の聖櫃」を聖なるものと崇め、飾り、歌や竪琴、シンバルやトランペットを用いて褒め称えました。神は旧約を廃止するために来られたのではなく、完成させるために来られたのです。新約が結ばれた今、私たちは新しい「契約の聖櫃」を敬うのです。



------------

マリア: 無原罪、被昇天、取りなし手

------------


上で見た通り、旧約の「契約の聖櫃」は純度の高い金で作られた汚れのない物でした。ですから、罪深い人類は、聖櫃に触れることを許されていませんでした。同様に、イエズスを宿した新約の聖櫃であるマリアも、純粋で汚れのないものでなくてはなりません。このため、マリアは予め人類の罪の滲みから守られていました(=無原罪)。


アダムもエバも原罪を持たない被造物として創られていました。ですから、誘惑によって罪を犯さなければ、死を免れる可能性を持っていました。新しいアダムも新しいエバも原罪から守られています。真の神であり真の人であるイエズスは天に昇りましたが、マリアはどうでしょう?エノクやエリヤも天に上げられました。イエズスが彼らに行ったこと以下のことを、ご自分の母に対してなさるでしょうか?「さあ、主よ、あなたの力の櫃とともに、あなたの安息の地にお進みください。(詩編 132:8)」(=被昇天)


黙示録の中で、マリアは天の女王として描かれています。彼女は冠を戴き、全世界を統べる王(ダビデの子、イエズス)を産み、竜(サタン)との戦いの真っただ中にいます。イエズスはダビデの子と言われます(ルカ 1:32)。面白いことに、ダビデの血筋から王座に就いた者と女王の関係において、女王は后のことではなく、王の母のこととして描かれています。(詩編45:9、列王記上 2:17-21、歴代誌下 15:16、歴代誌下 22:10、エレミヤ 29:2等々)


列王記上 2:18-20 / バト・シェバ(=ソロモン王の母)は答えた、「分かりました。あなたのために、わたしから王に話しましょう」。バト・シェバはアドニヤのことを話そうとソロモンのもとへと行った。王は立ち上がって迎え、彼女を拝してから王座についた。王の母のために席が設けられ、彼女は王の右に座った。「一つ小さなお願いがあるのですが、お断りにならないでください」と彼女が言うと、王は答えた、「母上、願い事をお話しください。あなたの願いを断ることはしませんから」。


また、女王は母であるだけではなく、同時に人々の願いを取り次ぐ存在です。カナの婚姻の席では、イエズスの「時」はまだ来ていませんでしたが、「Woman(マリア)」の願いをイエズスは拒みませんでした。(=力強い取りなし手)



------------

結 論

------------


聖書は、旧約と新約をあわせてひとつのコンテキストとして読み解かれなくてはいけません。 そもそも「聖三位」という言葉も、聖書の中では一度も出て来ませんが、聖書を読み解くことにより導かれる神の姿です。マリアの魂は、なんと神に栄光を帰することでしょうか!!




マリア comments(7) -
Scott Hahn
Lamb of God


pattern



最近、アメリカで有名な神学者、Scott Hahn(スコット・ハーン)氏の著作を読んでいます。

彼はもともとプロテスタント・長老派の熱心な牧師。カトリックは完全に間違った教えを信じていると確信していました。

ある時、堕胎問題に触れ、堕胎が主の掟に反していると感じ、そのことについて神学的なリサーチを奥さん(彼女も神学者)と開始。すると、現代にいたるまで堕胎を明確に禁じているのは、“誤った教会”であるはずのカトリックのみだということを発見し、困惑します。

それを機に、堕胎問題だけでなく、プロテスタントとカトリック双方の教義の研究に没頭。すると、プロテスタントとして信じていることが聖書と矛盾している点が多いこと、また、プロテスタントとして聖書を熱心に読んで来たはずなのに、見落としている点が多いことに気づきます。

■ 例1
プロテスタントの基本は「sola scriptura(ソラ・スクリプトゥーラ:聖書のみ。カトリックでは“聖書と使徒の伝承”の両方)」です。しかし、その聖書の中で、イエズスは「私の言うことを行いなさい。」とは言っても、一度も「私の言葉を書き残しなさい。」と言っていないのです。それどころか、パウロは、テサロニケ人への第二の手紙2章15節において、「・・・しっかりと立ち、わたしたちの説教や手紙を通して学んだ正統な教えを固く守りなさい。」と言っています。(この箇所は英語では"...stand firm and hold to the traditions which you were taught by us, either by word of mouth or by letter."となっていて、直訳すると、「・・・しっかりと立ち、言葉であれ手紙であれ、わたしたちによってあなたがに教えられた伝統を保ちなさい。」となります。)

■ 例2
もう一つのプロテスタントの重要な教義は、「sola fide(ソラ・フィデ:信仰のみ、カトリックでは“信仰と行い”の両方が必要)」ですが、こちらも聖書をよく読むと、パウロは一言も言っておらず、逆にヤコブの書簡では「たとえ、誰かが自分は信仰をもっていると言っても、行いを伴わないならば、なんの役に立つでしょう。そのような信仰は、その人を救うことができるでしょうか。」と「行い」の必要性を説いています。パウロもコリント人への第1の手紙のあの有名な愛の賛歌の箇所で、「たとえ、山を移すほどの完全な信仰があっても、愛がなければ、わたしは何ものでもない。」と言っています。愛には気持ちや思いだけでなく、行いが伴うのは当然のことです。

他にもいろいろありますが、ハーン氏はカトリックの教義が非常に聖書に基づいていて、研究すれば研究するほど反駁できないことを発見し、ますます困惑してします。

そして、ミサにあずかってみた時、彼は衝撃を受けます。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。」「神の子羊。」ヨハネの黙示録(4章etc)の中に出て来る天国における礼拝の場面そのものが、まさに地上において再現されているからです。このこと自身、カトリックであるボクたちも見落としているのではないでしょうか?

ミサがまさに祭壇上の受肉した神の子羊を中心とした天の礼拝そのものである一方、プロテスタント教会の礼拝が、牧師の説教中心である点に疑問を抱きます。そして、牧師の考えが教会の重要な要素になっているため、考えが異なると枝分かれしていき、次々と新しい教会が生まれてしまっていることに疑問を抱きます(一説では、3万もの教派があるとか)。カトリック教会は、二千年に渡り一つの教会であり続けているからです。

ハーン氏によると、旧約から新約にいたるまで、聖書全体のキーワードとなる言葉が、日本語で「契約」と訳される"covenant"。これは、「ビジネス的な契約」のことではなく、聖なる結びつきのことで、神と人間が家族という血縁関係に入るということ。

この「契約(covenant)」という概念が、旧約の時代から新約にいたるまで、聖書の根幹となっていて、「契約(covenant)」を通して、父親としての責任を果たしている姿が、時代を通して描かれています。アダムとの「契約(covenant)」は、「婚姻」、ノアとの「契約(covenant)」は、「一家」、アブラハムとの「契約(covenant)」は、「一族」、モーゼとの「契約(covenant)」は、「12氏族を通して一つの国となる家族」、ダビデとの「契約(covenant)」は、「王国としての家族」、そしてイエズスは、ユダヤ人も異邦人も関係ない「世界的な家族」とします。しかも、イエズスが「契約(covenant)」と語ったのは、ご聖体を制定されたあの時だけなのです。

また、イエズスや使徒たちも、家族関係を示す用語を多々使っています。「父である神」、「御子であるキリスト」、「初子」、「婚姻の宴」として表現される天国、「主の配偶者である教会」、「神の子とされたキリストを信じる者たち」・・・等々。そして、イエズスがもたらした「世界的な家族」は、各レベルにおいて、父親的存在を通して神の愛と掟とが神の子どもたちに示されます。それを図示すると、ピラミッド型になります。これはまさにカトリック教会の組織と同じ。よく批判の対象となるカトリックのヒエラルキー的な組織形態自体が、見事に聖書の「契約」が示す親子関係の姿になっているんです。教皇を表す"Holy Father"も"Pope"も、どちらも「父」という意味です。

蛇足ですが、ふふっと笑ってしまったのは、彼がカトリック的になりすぎていると危惧した奥さんが、他の著名なプロテスタントの神学者たちに、神学的に夫を助けて欲しいとお願いするのですが、彼らがハーン氏の間違いを指摘しようとカトリックの教義を研究し出すと、逆にカトリックの教義の正しさを見出してしまい、先にカトリックに改宗してしまう点です。アメリカでは、そういう改宗が増えているとのことです。

最終的にハーン氏は、ご聖体への渇きと神学的な確信とを得て、カトリックに改宗。敬虔な牧師の家庭に生まれ育った信仰深い娘であり、当初は夫のカトリックへの改宗を快く思っていなかった奥さんも、様々な葛藤を乗り越え、カトリックに真理を見出し、数年後に改宗しました。今では二人とも熱心なカトリックの護教論者。若者たちの主への情熱であふれたあのステューヴェンビル大学で教鞭を取っています。

ハーン夫妻の改宗へのドラマチックな道のりは、"Rome Sweet Home"に詳しく記載されています。比較的平易な英語ですので、誰にでも読みやすいと思います。その他にもたくさんの素晴らしい神学的著書を表してて、いくつかの本を読んでいるところです。日本語には「子羊の晩餐―ミサは地上の天国」が訳されて出版されているようです。彼の著書を読むと、カトリックに与えられている宝の素晴らしさ&尊さに気付かされると思います。また、それがプロテスタントから改宗した彼の望みでもあります。




ハーン氏の改宗の道のりをシェアした動画




アツく語るハーン氏




ステューベンヴィル大学での素晴らしい講話:過ぎ越しの犠牲について




若き信仰にあふれるステューベンヴィル大学!!




プロテスタント comments(0) -
Fiat
heart

pattern


またまたご無沙汰してしまいました。

ここしばらくの間、人生の大きな岐路の一つに来ています。それに関連して噴出する種々の問題や人間関係に押しつぶされそうになり、その度に祈り、祈りとミサの中で小さな光と平安を見出し、けれどまたその嵐の飲みこまれ、祈り・・・の繰り返しです。ですが、このことを通して、主はボクに主に対する完全なる委託と信頼を学ばせようとされているように感じます。Non mea voluntas, sed tua fiat.

昨日、ミサの後、買わなくてはいけないものがあったので教会売店で購入し、シスターが勧めてくださった「みことばおみくじ」を引きました。そこにはこう書いてありました。

あなたの神、主が共に行かれる。主はあなたを見放すことも、あなたを見捨てられることもない。(申命記13章6節から)」

まさに今のボクに必要なしるし!主がみことばを通して語りかけてくださったことに鳥肌が立ったとともに、深い感謝と安心感を得ることができました。このみことばを胸に、前進していきたいと思います。

また、今朝、今日のみことばの箇所「わたしの愛にとどまりなさい。」を黙想していると、イメージが心にわいてきました。

主の御手の中に一粒の小さな小さなちりがあります。このちりはボク自身。主がしっかり手を握っておられると、ボクは安全。でも、主が手を開かれると、簡単に風に吹き飛ばされてしまいます。それほど、ボクたちは小さく、もろく、はかない存在。だからこそ、己を過信することなく、主にしがみついていないといけません。もともと、ヘブライ語の「信じる」である「he'emin(ヘエミン)」は、語源は「'aman(アマン)」で、「くっつく、〜から離れない」という意味だったと聞きます(ちなみに、「私は信じます。」は「Ani ma'amin.(アニー マアミン)」)。頭の中で神を捉えるのでなく、神と人の間の存在と存在の根本的な関わり合いこそが「信じる」ということなのでしょうね。

どうかボクが主の御旨に完全に自分を委ね導かれるよう、お祈りでサポートください。よろしくお願いします。




いろいろ comments(1) -
Meet Me in Galilee



pattern


月曜日の福音のある箇所をずっと思いめぐらせています。復活したイエズスが、墓に来た女性たちに、弟子たちにガリラヤへ行くように告げる場面です。

 

するとイエズスは、「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤへ行くように告げなさい。そこでわたしに会うであろう。」と言われた。(マタイ 28:10

 

マルコの福音書にも、同じような箇所が出てきます。伝言する側は天使ですが。

 

さあ行って、弟子たちに、特にペトロにこう言いなさい。「イエズスは、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。かねてから言っておられたとおり、そこであなたがたはイエズスに会えるでしょう」と。(マルコ16:7

 

復活後のイエズスは、なぜエルサレムでなくガリラヤで弟子たちと会われるのか?その理由は、聖書のどこにも記載されていません。

 

エルサレムからガリラヤ地方までは、100km強ほどの距離だそうです。だいたい人の歩く速さは4km/hなので、112時間歩いたとして、二日強かかります。決して近い所とは言えません。しかも、岩肌のごつごつした乾燥地帯ですから、旅も一苦労ではないかと思います。ちなみに、「ガリラヤ」はヘブライ語で「galil(ガリル)」で、「地区」や「地方」、「周辺」といった意味とのこと。エルサレムを中心としたユダヤ社会にとって、まさに辺境という感じなのでしょう。

 

さて、復活されたイエズスは、すぐに弟子たちに姿を示されるのではなく、なぜわざわざ遠いガリラヤで会われるのか?

 

ガリラヤは、弟子たちと最初に出会った土地だからではないでしょうか?初めて主と出会った時、弟子たちは、喜びに満たされていたことでしょう。そして、すべてを捨てて主に従うことを決心します。ですが、恐ろしい受難を目の当たりにして逃げた弟子たちは、悲嘆にくれ、希望を失い、信仰を失いかけていたかもしれません。しかし、ガリラヤにおいて復活した主に出会うことで、再び喜びに満たされ、原点に戻り、信仰を新たにするのではないでしょうか?ガリラヤは喜びの地であり、憩いの地であり、出会いの地であり、信仰を新たにする場所の象徴なのではと思いました。

 

また、私たちはイエズスを見失いかけたとき、エルサレムのような虚栄と雑音に満ちた環境ではなく、世俗的なことから離れた静寂さの中でこそ、イエズスと再会できるということも示しているのではないかとも思います。

 

この箇所を黙想して感じること、神学的な説明、その他もろもろ、ぜひコメントでシェアしてください!blog上でもこういう形でお互いの信仰を深めることができればと思います。








黙想 / Meditation comments(4) -
Easter


pattern


+ Happy Easter!!
ご復活、おめでとうございます!!

ご復活の喜びにぴったりな歌を見つけました。歌詞を下に記しておきます。愛する前教皇様と子供たちとの美しい動画、きっと心に響くと思います。





■ Jesus Christ, You are My Life ■
( イエズス・キリスト、あなたは私の命 )
by Marco Frisina ( マルコ・フリズィーナ )

//   Refrain   //
Jesus Christ, You are my life,
( ジーザス・クライスト ユー アー マイ ライフ )
Alleluia, Alleluia.
( アレルヤ、アレルヤ )
Jesus Christ, You are my life.
( ジーザス・クライスト ユー アー マイ ライフ )
You are my life, Alleluia!
( ユー アー マイ ライフ、アレルヤ )

//    1番:イタリア語歌詞    //
Tu sei via, sei veritá,
( トゥ セイ ヴィーア、セイ ヴェリタ )
tu sei la nostra vita,
( トゥ セイ ラ ノストラ ヴィータ )
camminando insieme a te
( カンミナンド インスィエメア テ )
vivremo in te per sempre.
( ヴィヴレモ イン テ ペル センプレ )

( 訳 )
あなたは道で、あなたは真理。
あなたは私たちの命。
私たちはあなたと一緒に歩み、
あたなの中で永遠に生き続けます。

//    2番:スペイン語歌詞    //
En el gozo caminaremos
( エネル ゴーソ カミナレーモス )
trayendo tu evangelio;
( トラジェンド トゥ エバンヘリオ )
testimonios de caridad,
( テスティモニオス デ カリダード )
hijos de Dios en el mundo.
( イホス デ ディオス エネル ムンド )

( 訳 )
喜びのうちに私たちは前進します。
あなたの福音を携えて。
この世界の中で、愛と神の子のことを証しします。

//    3番:フランス語歌詞    //
Tu nous rassembles dans l'unité.
( テュ ヌ ラサンブル ダン リュニテ )
Reunis dans ton grand amour.
( レユニ ダン トン グラン ダムール )
Devant toi dans la joie
( デゥヴァン トワ ダン ラ ジョワ )
nous chanterons ta gloire.
( ヌ シャントゥロン タ グロワール )

( 訳 )
あなたは私たちを再び集めて一致させ、
あなたの偉大な愛の中に集わせます。
あなたの御前で、喜びあふれ、
私たちはあなたの栄光を褒め歌います。




聖歌 comments(0) -
<< | 3/9 | >>