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Fr. Sudac / Confession and the Ten Commandments: 1

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スーダッツ神父が、とある黙想会で、「赦しの秘蹟」と「十戒」の関係について講演されている内容の翻訳です。


「十戒」の内容ひとつひとつに触れながら、それぞれの戒めが語っていることに背いてしまっていないか、良心の糾弾をするよう求めておられます。霊的な生活を送るにあたり、自分は「無」であることを謙遜に認め、自分の内面や生活を見直し、告解すること無しには、つまり、神と和解すること無しには、どんな霊的活動も意味がないということをおしゃっています。基本に立ち戻って神父様と一緒に改めて「十戒」を追っていくと、あまり罪という意識もなかったもの、実はとんでもないことだったということに気付かされます。

ただし、「神は愛」という最も根本的で最も大切な部分から離れてしまい、罪にばかり視線を投げかけ、罪を数え上げることばかりに集中すると、本来の「赦しの秘蹟」の意味から離れてしまいます。ファリサイ人のように、罪を犯さないことだけ、きれいでいることだけが関心事の中心となってしまい、神を愛することをおざなりにしてしまいます。ですので、先日紹介した講話も一緒に読みながら、バランスをとって自己糾明することをお勧めします。

Fr. Sudac / Confession

なお、ボクの翻訳能力の限界と、クロアチア語から英語に直訳されてしまって、意味が分からなくなってしまっている英文があるため、一部割愛したり、想像力を働かせて、こういうことを言わんとしているのだろうと独自に判断している部分もある点はご了承ください!何回かに分けて掲載していきます。



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まず、十字架のしるしから始めたいと思います。御父と御子と聖霊の御名によって。アーメン。

みなさんの心の中に、本当に生きておられる聖なる三位一体の神がいらっしゃいますように。みなさんを心から歓迎いたします。

クロアチアのノヴァーリャに戻って来ることができて、嬉しく思います。ここですべてが始まりました。特別な感情と思い出のあるこの教区に愛着を感じています。

これからのスケジュールについてお話しましょう。わたしは教区内でしばしばセミナーを開いています。50〜60人のものから100人くらいの小さくはないグループがあり、ちょうどここのようにどこの教会も人でいっぱいです。さて、わたしは何をみなさんにお話しすればよいでしょう?今日、話すべき大切なことは何でしょう?

セミナーでは、念祷や黙想のことなど、いろいろなことについて語りました。ですが、人々はこれらのことについて理解していないように感じます。基礎的で根本的な部分から始めることの大切さ、そして、秘跡の重要性について気付かせることの大切さを切実に感じています。ですから、わたしは信仰の礎(いしずえ)について語るつもりです。また、サタンのことや悪魔のことなど、現代の人々があまり語らなくなっていることの重要性についても話すつもりです。

他にも気付いたことがあります。今日、瞑想やスピリチュアルなカウンセリングなどといったものをいたるところで目にします。そのような最近流行りのオカルトと比較して、カトリック教会についての偽りの情報が流されています。オカルトとカトリックの教え、どちらが優れているか比べたり、両者の垣根を徐々に低くして行ったり。

わたしたちはそれらと競いあう必要もなければ、自分たちの正しさを証明する必要もありません。わたしたちにはイエズス・キリストがすでにいらっしゃり、キリストは二千年にわたって生き、共にいてくださっているのです!そして、神と人とが直接触れ合うことのできる聖なる秘跡があるのです!キリスト教の教えは明確で、確固としていて力強いものです。わたしたちは誰とも競争する必要はありません。神からいただいているものを生きるだけです。生きた証人となるだけです。

ですから、今日は「赦しの秘跡」について話すことから始めたいと思います。もしみなさんが自分の罪を告白しないのなら、霊的な書物を読むことも、レクチャーも、黙想も、いったい何のメリットがあるというのでしょう?

みなさんは大勢いますが、ここにはわずか5名の司祭しかいません。ですので、わたしは手短に内容を凝縮して話すつもりです。

告解するときは、簡潔で明確にしないといけません。この講話の後、みなさん全員が告解できる機会を設けます。わたしたち5名の司祭が、みなさんの告白を聞きます。もし、一晩中かかるのなら、わたしたちは全員ここに一晩中います。ですから、告解に来てみなさんの罪を告白してください。

さて、非常に重大な問題があります。人々は、どう告解してよいのかわかっていないのです。「赦しの秘跡」が何かさえわっていません。ですから、その起源から始めたいと思います。旧約聖書から、つまり、神の十戒からです。

どうか、わたしの語ることに注意深く耳を傾けてください。聞いて、自分の人生にあてはめ、振り返り、自分に問いかけてください。これは、告解に向けてあなた方自身を準備するためのものです。さらに自己究明を続けるために必要な出だしにすぎません。それから、神との和解を見いださなければいけません。



第1の掟から始めましょう。神は言われます。「わたしはあなたの主なる神である。わたしのほかに神があってはならない。」

この神をみなさんは人生の中で本当に何よりも優先していますか?ここから始めましょう。神を人生の中で何よりも優先していますか?わたしたちクリスチャンは、とても生ぬるくなっていると思いませんか?そう思いませんか?わたしたちはひどくひどく生ぬるくなっていると思いませんか?

わたしたちはとても無関心な人間となってしまいました。信仰の生ぬるい人たちによって、多くの罪が簡単に犯されるようになってしまっています。皮肉なことに、神であるべき方以外のすべてのものが、わたしたちの神となってしまっているのです。みなさんの生活の中で、神の優先順位は何番目ですか?どのくらいの時間を神のために捧げていますか?

人々がやっていることは、空っぽな自分の心を埋めることだけです。神不在なので、その代わりに他の何かで埋めようとします。彼らはありとあらゆる間違った場所へと足を運びます。みなさんはよく理解して気付いておかないといけません。そして、様々な悪魔の罠に注意してください。人々と共に働けば働くほど、たくさんの人たちが悪魔によって引き起こされている問題を抱えていることに気付きます。彼らは悪魔に関わってしまっているのです。

偽預言者や霊能力者、水晶による癒し、魔術師、占い師、スピリチュアリズム、儀式やその他のナンセンスなもののところを訪れています。これらはすべて神に反するもの。人々の神への信仰が欠如しているのです。

自問してみてください。あなたの心の中におられ、あなたに永遠を命を与えられた主であるイエズス・キリストは、本当にあなたの救い主ですか?イエズス・キリストは自分の救い主であることを理解していますか?彼はあなたにとってすべてを意味していますか?

自問してみてください。「主よ、あなたがいらっしゃるのを本当に感じます。あなたとともに呼吸し、あなたとともに動いています。」と、確固たる信念をもって言えるかを。「主よ、あなたは本当にわたしの人生において一番の場所にいらっしゃいますか?」と。

もう少し掘り下げてみましょう。あなたの人生を変えたものは何でしょう?真の神を別の神々に置き換えてしまわせたものは何でしょう?たとえば、イデオロギー、政治、お金、キャリア、成功、名声、力、執着、会社、人々、伝統、儀式、などなど。何者かになりたいという静かな欲望が、これらをあなたの神々にしてしまっているのです。

けれど理解しなくてはいけません。あなたは何者でもないということを。そうすれば、神こそがすべてであるということを理解できるでしょう!わたしは何度も繰り返して言っているので、自分がオウムになったように感じます。天国でのあなたのいるべき場所があなたを待っているのです!ですから、そのような態度やそのような生き方を拒否してください。自分の体を犠牲にしても、自分の家を抵当に入れても、あなたが行うことでは天国を勝ち取ることはできないのです。ただ神がその贈り物をあなたにお与えになるのです。魂の永遠性は贈り物なのです。神のいつくしみがあなたに与えられているからです。二千年前に神がその御ひとり子をわたしたちのためにお与えになったとき、神があなたのためになさったことゆえです。

救いを得るために主の体に香油を注ぐ必要はありません。あなたがしなくてはいけないことは、自分の心を開くことです。そして、神の前に自分は無であることを告白することです。神無しにあなたは一歩も動くことはできません。自分が無であることを受け入れ、神に心を開いてください!あなた自身が何者であるか、神に告白してください。つまり、傷ついた罪びとであるということをです。そして、彼の赦しを謙虚に願ってください。

これらのことがベースとなることです。ここからみなさんはスタートしないといけないのです。

ですから、第1の掟について考察することをみなさんにお願いしているのです。真の神であられる方以外に、あなたの人生を占拠している他の神々は一体何でしょう?ある人は健康に執着するあまり、健康というものが彼らの神になってしまいます。

なぜファリサイ人たちはイエズスを拒絶したのでしょうか?なぜでしょう?それは、彼らが自分たちで勝手に作り上げた「神」についてのイメージを持っていたからです。そして、そのイメージが、真の神であるイエズスと合致していなかったからです。

わたしたちは皆、気付いているかどうかに関わらず、いろんな種類の神々を心の中に持っています。だから、本当の神を見失ってしまうのです。

わたしたちが何をし、何によって心を満たし、いかに神とのいつくしみに溢れた関わりを壊してしまっているか?そのことを一番分っているのは、みなさんご自身です。わたしたちの人生を占拠してしまった神々は何でしょう?それらは、真の神でしょうか?ですから、みなさん、今日告白し、本当に理解すべきなのです。

続けましょう。




to be continued




スーダッツ神父 comments(4) -
Fr. Sudac / Interview


スーダッツ神父が1999年と2001年、アメリカのシカゴを訪れた際、クロアチア系のカトリック教会で受けたインタビューをまとめたものです。スーダッツ神父の人生から、聖母との関係、メジュゴリエのこと、聖痕やいただいている賜物のことについて、話しておられます。スーダッツ神父のメッセージの根底にあるものは、常に「愛」ですね。


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Q: なぜ司祭になろうと思われたのですか?

何年もの間、ひとりの人間として自分を最大限に生かせる道を模索していました。高校では機械工学を学びました。それから、哲学や心理学を専攻したのですが、神学校へ編入し、教区司祭の志願者となりました。

わたしの召命について語ることは、わたしという存在やわたしの心の中に、もう少し入りこむ必要があります。誰しも、どのようにすれば自分というものを最大限に生かせるかを探し求めるものだと思います。同様にわたしも、自分自身を完全に主に明け渡せる生き方について考えていました。わたしはいつも霊性というものに惹かれ、常に霊的な本を読んでいました。そこで、単純に司祭になろうと決意したのです。それが主に自分を委ねる最後のステップでした。

病気で苦しんでいる人たちや社会の隅に追いやられている人たちのために働くことに喜びを見出していましたし、そのような生き方を送れるのであれば、けっして独りぼっちになることはないだろうと思いました。人々のために生きる人は、逆に人々から非常に多くのものを受けるからです。これらこそ、永遠の価値があることです。わたしたちが地球上に存在する理由のひとつは、周囲の人々を愛し、彼らのために生きることです。特に今日、このことはとても必要になっています。わたしはまだ若いです。わたしの目の前には、人生と未来があります。ですから、すべての人々、特に他の人から遠くはなれ、神から遠くなはれ、自分自身からも遠く離れてしまっている人々のために、わたしの心を割くことができるよう神の恵みを祈り求めています。


Q: カトリックの家庭に育ったのですか?当時は共産党支配の時代でしたが、ご両親はカトリックの信仰を実践することが許されていましたか?「神はいない」という共産主義思想の影響はありませんでしたか?共産体制の下で、どのように神を知るようになりましたか?

わたしの家族は伝統的なカトリックです。しかし、その「伝統」というものが、多くの人たちが信仰を生きるための弊害となっていました。わたしも、教会に来ることで、神を知り神を愛しているんだと自分を安心させていました。けれど、それは「愛」ではなくて「習慣」であるということに気付きました。

そこでこう自問したのです。人々がわたしのことを愛してくれるとき、「そうするのが慣わしだから。」と愛してくれたとして、果たしてわたしはうれしいだろうか?と。わたしたちが習慣的に神を愛することを、神はどうお感じになるのだろうか?と。

そして理解しました。神への愛は、生き生きとしたものであり、伝統に縛られないもの。わたしたちという存在の奥深くに結びついているもの。わたしたちを変容するもの。そして、他の人たちのために証する力を与えるものであるということを。今、この瞬間に神を愛することです。過去でも未来でもなく、今を生きることです。一挙一動を神と共に生きることです。それは、神のメッセンジャーとなることを意味します。このことはいつも、神のためにチャレンジする心をわたしの中に呼び覚まします。神は、イエズス・キリストを宣言する人たちすべての父です。神が人々のために命を投げ出されたのですから、わたしたちは、人々のために生きたいという魂の深さを持たなくてはなりません。


Q: 何歳で司祭職の道へと進んだのですか?

22歳のときです。


Q: 何歳で司祭に叙階されたのですか?

27歳のときです。叙階されたのは、1998年6月29日、聖ペトロと聖パウロの祝日でした。


Q: 聖霊刷新運動に参加されていますか?

第二ヴァチカン公会議において、わたしたちの教会は、「教会は位階的でカリスマ的」だと定義しました。問題は、聖霊刷新に関わる多くの人々が位階的教会の外で活動している点です。教皇様や司教様たちと一致していることこそが、司祭や信徒たちの行動が、正しく間違えのないものであるということを唯一保証するものです。神がわたしに何か特別な使命をお与えになるのなら、その使命についてわたしが心配する必要はありません。神が望まれるのなら、教会と教会の指導者たちを通して実現されるでしょう。教会とすべての人々にとって利益となるようなカリスマの生き方を、主は可能にしてくださいます。わたしはモザイクを構成する1つのかけらに過ぎないのです。イエズスではなくわたし自身に注意を引こうとするのであれば、わたしは生まれないほうが良かったのです。このような姿勢こそが、神に仕えるために、これからの新千年紀において必要なものです。


Q: 神学校には何年いましたか?4〜5年ですか?

6年です。


Q: 修道会に属しておられますか?

いいえ。クロアチアのクルク教区に属しております。


Q: ご兄弟はいらっしゃいますか?

姉妹がいます。彼女はすでに結婚していて、2児の母親です。



■ 聖痕について

Q: 主が聖痕をあなたに授けられたとき、どのような祈りの集いを開催されていたのですか?

新聞はそのように書いていますね。でも、本当は祈りの会においてではありません。とある家族の家でアットホームな集まりがあったときのことです。

当時起きたことについて語るとき、わたしは主に対するとてつもない畏敬の念を感じます。多くの方々がわたしに起こったことについてどう思うかと尋ねて来るのですが、人々が知りたがっていることは、わたし自身でさえ分かっていないことです。

イエズスは、その価値はその実によって識別されるとおっしゃっています。もし人々がわたしのミサや講話に来て神を体験し、自分自身を変えるなら、病気で苦しんでいる人たちが癒されるなら、仲たがいしている人たちが和解するようになるなら、神を冒涜していた人たちが、神との和解を求めるようになるなら、悲しみにくれていた人たちが、希望に満ちて家に戻るのなら、この「実」にこそ、わたしたちの目を向けなくてはいけません。

わたしに注目しないでください。いつも講話や黙想会においてこう言うのです。「みなさんがわたしを見るためにやって来たのであれば、みなさんは大変大きな間違いを犯しています。しかし、イエズス・キリストを求めて来たのであれば、ここにいてください。」と。

わたしたちがフォーカスを当てるべきは贈り物を与えてくださる方にであり、贈り物そのものにではありません。これまでの経験から、自分はイエズスの足が踏んで履いておられる「サンダル」だなと感じます。このサンダルをイエズスが履き、神を心から求めている人たちのところに来てくださるのです。イエズスに忠実にお仕えすることができる力を、主がわたしにお与えくださいますように。


Q: 額に痛みを感じることはありますか?

祈っているとき以外は、痛みを感じることはありません。祈っているときには、傷が脈打つのを感じます。月の最初の金曜日や特別な時には、あたかも泣いているかのように血が流れます。



■ 聖母について

Q: 聖母とは親しい関係ですか?

非常に!彼女はわたしの愛する母です。すべての悪の力は、彼女の前では打ち負かされます。彼女に祈るときは、汚れのない心でしか祈ることはできません。人生の最後まで守ってくださっていることに感謝しています。わたしは自分自身を「汚れなき聖母の御心」に奉献しています。聖母は、教会の霊性における優しさの側面そのものです。今日の機械的で荒々しい社会では、母性の優しさというものが欠如してしまっています。


Q: 子どものときに聖母のご自身を奉献したのですか?

1年前です。


Q: 幼少のころからマリア様に親近感を抱いていたのですか?

わたしの母親について興味深い話があります。彼女が若かった頃、「神の愛の宣教会(=マザー・テレサの修道会)」のシスターになりたかったそうです。当時はまだ、修道院がシスターたちを養うため、入会時にある程度のお金が必要でした。わたしの祖母は、つまりわたしの母の母親ですが、非常に貧しく、お金を準備することができませんでした。そのとき、母はマリア様に誓いを立てたのだそうです。もし自分はシスターになれないのであれば、そして、息子が授かるのであれば、その子を神にお捧げしますと。この誓願のことは、司祭になりたいということを母に告げたときに初めて打ち明けてくれました。母は涙ながらにこの誓願について語ってくれました。そして、神の御母の取次ぎによってわたしは守られていたのだと確信したのです。


Q: お父さんはご健在ですか?どちらにお住まいですか?

おかげさまで元気です。両親はクルク島に住んでいます。ザグレブの大司教様の出身地でもあります。母はザグレブの大司教様と同級生だったそうです。この小教区には70名ばかりの司祭がいます。クロアチアの中では一番小さな小教区のひとつです。


Q: メジュゴリエに行かれたことは?

3回行きました。これらの巡礼は、わたしにとって決して忘れられない経験です。メジュゴリエは、祈り、沈黙、改心のための聖なる場所です。


Q: はじめてメジュゴリエに行かれたとき、もう司祭になられていましたか?

まだ非常に若い少年のときでした。


Q: 司祭になった後に行かれたことはありますか?

はい。


Q: メジュゴリエにおいて見出したことでもっとも大切なことは何ですか?

「正直さ」です。真実を愛する人であるべきということ。今日、「真実」は招いています。「真実」は人性のすべてを求めています。マリアはわたしの存在すべてを求められます。神と聖母にわたしのすべてを明け渡すということ。そうすることで、わたしは自分を失うのではなく、自分を見出すのです。そのことをメジュゴリエで教えてもらいました。特に、神に信頼をおかなくてはいけないというメッセージをいただきました。



■ 神からいただいた賜物について

Q: イエズスや聖母は語りかけてこられますか?

いいえ。幻視や出現を受けたことは一度もありません。しかし、「心の会話」の賜物はあります。他の人の心の中を読み、診断するという恵みです。告解を聞いているときや霊的な話をしているときに、この賜物が発現します。いつも相手を助けるために与えられ、その人が自分の言いたいことを表明し、神と愛の関係が結べるようになるために与えられます。


Q: 人の心を読める恵みは、聖痕を受けた後にいただいたのですか?

聖痕を受ける前です。異言の賜物、癒しの賜物、判断の賜物をいただき、それから徐々に知識の賜物もいただきました。聖痕現象が起きるようになってからは、他にも多くの賜物をいただきました。そのうちのいくつかには、非常にわたしも圧倒されます。ですので、いただいた賜物に慣れるまでには時間が必要です。特に、レヴィテーション(宙を浮く恵み)、バイロケーション(同時に二ヶ所に存在する恵み)、照明の賜物、来るべき出来事、特に将来起こる危機を知る知識などがそれです。


Q: これらの賜物について詳しく話すことは可能ですか?

もう少し時間が経つのを待ちたいと思っています。世界でもトップクラスの専門家たちと協力しているところです。彼らの視点からすべてがきちんと観察されることを望んでいます。そして、これらの現象について教会がなんらかの公式見解を出すまで、わたしがこれらのことについて話すのは良いことなのかどうか分かりません。わたしはイエズスにこそ注目の向けたいのです。しかし、これらの現象は、注意をわたしの方に向けかねません。わたしは一人の罪深い人間にすぎません。聖痕を受けてからは、告解の秘蹟を受ける必要性が非常に高くなりました。わたし自身はみなさんと何ら変わらない人間です。己を小さくすることでのみ、神に属するものとなります。


Q: 異言の賜物について語られていましたが、「異語」のことでしょうか、あるいは「外国語」を語る恵みのことでしょうか?

異言の賜物には、いくつかの種類があります。ひとつは、外国語を学んだことがないのに、その言葉を話せるという賜物。ひとつは、ヘブライ語やアラム語、あるいは古いセム語系の言葉といった、すでに忘れ去られた言葉を話せる賜物。そして最後に、神の恵みに促され、言語学的には意味をなさない「バブリング」と呼ばれているいわゆる天使の言葉を話す賜物です。

異言の賜物については、聖書にも書かれています。しかし、わたしたちは注意深くこの恵みを識別する必要があります。悪魔も異言を語れるからです。あるとき、異言で祈る会合があり、その様子はテープに録音されました。異言の意味を識別できる賜物を持った人がそのテープを聞くと、その祈りの内容は、すべて神への呪いと冒涜でした。

聖霊降臨のとき、使徒たちがいろいろな言語で祈っていると、ひとりが話せば全員がその内容を理解しました。今日、わたしたちの祈りの集いにおいて、全員が異言で語っていますが、誰もその内容を理解していません。わたしの経験から次のことが言えます。異言の賜物をいただいていて、かつ、心の中は汚れのない状態であり、しかも、異言で神を賛美する必要性を感じるのであれば、その人がまず大きな声で祈りを始めるべきです。しかし、そのとき、異言を理解する恵みをいただいている人が進み出て来ないのであれば、その異言は共同体をつくり上げるために与えられたものではなく、個人的な成長のために与えられたものだということです。であるなら、その人は、自分自身のために静かに祈ることを勧めます。わたしたちがいただいている賜物は、すべて個人のためではなく人々のため、共同体のために与えられているのです。


Q: バイロケーションというものについて教えていただけますか?

これはとても興味深い賜物で、誰かが目撃して証できるときにのみ現れる恵みです。この賜物を受けている人自身は、最後まで自分に何が起こっているのかよく分かりません。一つの場所にいる感覚はあるのですが、心と想像力は違う別の場所にいたがるのです。バイロケーションは、神や祈り、ご聖体と共にいることを妨げられるときに起こります。わたし自身も似たような妨害にあったとき、バイロケーションがおのずと起こりました。


Q: 神に近づくことを誰かが邪魔をするとき、神に近づくことができるようバイロケーションするということですか?

わたしはある場所において神とともにいて、もう一ヶ所でも神とともにいました。しかし、もう一ヶ所の方では、物理的に神と共にいたというよりも、心や想像の中で神を経験しました。 そこで何が起こっているか全部わたしは分かっていたということは興味深いですね。しかし。他の人が証言してくれるまでは、自分の想像の産物だと思っていました。6人の人がわたしを別の場所で見たと証言しています。そのうちの一人はわたしと握手までしたそうです。


Q: インタビューのはじめに、これら恵みは、主への畏敬の念を強く感じさせるようになったとおっしゃっていましたね。

今でもそうです。神は神についてのあらゆる概念や想像をはるかに超える存在です。わたしたちの感覚だけでなく、魂の状態さえもはるかに超えているので、人の知識や感覚では認知し得ない方です。ですから、神について語ることは不可能なのです。

そのような神とコミュニケーションできる唯一の方法は、神を愛することです。わたしたちは消え、神のみが存在するよう、わたしたち自身を神の中に沈めなくてはいけません。そうすることで、自分を失うのではなく、神の中において自分を見出します。このことは、心をこめ、魂をこめ、力の限りに神を愛する人たちにしか理解し得ません。罪を犯すのは、神への愛が欠けているからであり、また、人々と自分への愛が欠けているからであって、この「愛の欠如」がすべての悪の源なのです。傷ついている人類が、無償の愛の法則を見出すのなら、人生はこの世ですでに天国となることでしょう。



スーダッツ神父 comments(6) -
Fr. Sudac / Sermon: Confession

 スーダッツ神父の講話や説教を、時間のあるときに訳して掲載していきたいと思います。


今回紹介するのは、「告解の秘跡(ゆるしの秘跡)」について。
 
神父の話は、告解するにあたり、改めて自分の態度や姿勢を非常に考えさせられます。罪を犯すことを避けなければならないのは当然ですが、あまりに自分を卑下したり、神経質に罪を数え上げたり、罪を犯さないことにばかり専念してしまうと、告解はまったく意味のないものになってしまいます。なぜなら、このような態度は神への愛へ近づいて行く態度ではなく、自分がきれいでありたい、自分が、自分が、と自分中心になってしまい、信仰の本質からずれてしまうからです。罪を犯さないことばかりに集中し、前進することができなくなります。それはファリサイ人の態度に通じるものがあります。ですが、愛のうちに成長すること、愛の人になること、神への愛を深めていくことこそが、クリスチャンにとって最も大切なことです。告解もそのためにあるものです。
 
実は、動画から訳しているのですが、訳している途中で動画が削除されてしまいました!ですから、最後の方が完成していません。また、クロアチア語をそのまま英語に訳していて、英語的に意味をなさない文章があったりしたため、その部分は削除したり想像を働かせて意味を汲み取って訳していたりする点、何卒ご了承ください。長いですが、是非最後まで読んでください。美しい話がたくさん出てきます!


2010/4/19 追記

ボクの翻訳のまずさで、神父様の説教の内容について誤解を与えてしまっている可能性があるので、追記させていただきますね。

ここで言われているのは、一度告解したら、もうその罪について告解しなくて良いということではありません。一度告白したことでも、また同じ罪に陥ってしまったのなら、その度に告解して赦しをいただかなくてはいけません。

一方、告解で赦しをいただき、再びその罪を犯していないにも関わらず、何度もその罪について告白する人がいます。自分は赦されたということを実感できておらず、不安に駆られて何度も何度も同じ告解を繰り返しているのです。それは、自分を必要以上に卑下し、神様が赦してくださっているにも関わらず、自分で自分のことを許せていないからです。

ですから、心から告解しているのであれば、その内容がどれだけひどい罪のことだったとしても、神様が赦してくださっているということを毎回きちんと信じないといけません。神は愛です。これが、神父様のお話のポイントだと思います。翻訳のまずさで誤解を与えないため&より良い文章に修正するためにも、みなさん、気軽にコメント欄にご質問等くださいね!よろしくお願いします。

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どのようにして悔い改めるのかを分っていない人たちに出会うことがあります。どのように罪を告白すればよいのか分っていないのです。
 
悔い改めることは素晴らしいことですが、間違った悔い改めは、とてもとても危険なものになり得ます。過剰なまでに自分に罪を着せたり、過剰なまでに自分自身を蔑んだり、また、過剰なまでに神の怒りを恐れたりすると、その悔い改めは神に背くものとなり、とても危険なものとなるのです。
 
みなさん、神から赦しをいただくことほどこの世で簡単なことはないのですよ。神はいつもあなたたちを赦そうと待ち構えておられます。わたしたちが赦しをいただこうとすること以上に、神はいつもわたしたちを赦そうとなさっています。問題があるとしたら、神にではなく、わたしたち側にあるのです。


とある父親か母親、あるいは男性か女性が告解にやって来ます。彼らは、堕胎に同意したと言います。わたしは最初に「この罪について、以前、告白したことがありますか?」と彼らに尋ねます。かなりの割合でみな「はい。」と答えます。 では、なぜその人は、何度も何度も同じ罪を告白するのでしょうか?
 
それは、神がその人を赦してないからではありません。彼らが自分たちを赦すことが出来ていないからです。自分を赦すことが出来ないということ。このことは、最初に触れておきたい点です。わたしが今話したように、神は罰を与えるより赦したいと待ち構えておられるのに、赦しは簡単に得られるのだということを信じられない人が現代にはいます。そういう人たちは、間違った形で自分には価値がないという感覚を作り上げてしまっています。そして、罪を犯すこともなく、神の前にいつも清らかでありたいと思っているのでしょう。ですから、神の御元に戻る前に、つまり、いつくしみを受けるに相応しくなるために、自分たちを清め、償いを果たさずにはいれません。
 
しかし、わたしたちの霊的な成長の道のりについて考えるとき、自分の価値の無さについてのこのような過った感覚ほど、神にとって邪魔になるものはないのです。彼らは罪の汚れがないきれいな状態でいたいのです。 ですが、罪自体は大きな障害物ではないのです。罪は障害物であるどころが、正しい悔い改め方と正しい神との関係があるのなら、利点にもなり得るのです。復活徹夜祭でわたしたちは何と歌いますか?教会は何と歌っていますか?「幸いなるアダムの罪よ、栄光の救い主をわたしたちにもたらしたこの神秘よ!」
 
この歌は何を言おうとしているのでしょう?「罪自体は神のいつくしみにとって障害物になるものではない。」ということです。神が赦せないほどの罪を人間は犯すことはできないのです。ですから、問題は神にではなく、わたしたちにあるのです。罪や過失、トラウマなどから発生した傷を何度もえぐり返し、あなた自身を苦しめ、また、さいなませるものは何でしょう?本当に赦すことは難しいことなのでしょうか?
 
そうです、みなさん、わたしたちは自分を赦すための恵みを祈り求めないといけないのです。わたしたちは、他人を赦す事はできても、どういうわけか自分を赦すことができないのです。ですから、自分自身を赦す恵みを祈ることは、素晴らしい贈り物なのです。
 

 
まったく重要ではない様々なことで自分に重荷を追わせて告解にくる人が、どれほど多いことが。たとえば、最後に告解した日付はいつか?だったり、すべて洗いざらい話して忘れているものはないか?だったり、自分の悔い改めは完全だったかどうかだったり、あれやこれや・・・。 人々は「森」を「ジャングル」にしてしまっています。わたしは思います。「こんなにごちゃごちゃしたものを、わたしたちは、一体どこで拾ってくるのだろう?」と。
 
イエズスはこれら細々したことについて一切語っておられないし、聖書にも書かれていません。罪の赦しを得るために強調されたのは、2つのことだけです。

一つ目は、「隣人を赦すこと」。つまり、あなたの兄弟姉妹を赦すことです。主の祈りで何と祈りますか?「わたしたちの罪をお赦しください。わたしたちも、わたしたちに負い目のある人たちを赦します。」
 
イエズスは言われ、聖書にも明確に書かれています。「天の父から赦されることを望むなら、あなたたちも互いを赦しあいなさい。」と。まずこれが最初の条件です。けれど、人々はどのように答えるでしょう?告解に来た人に尋ねます。「あなたのお姑さんや義理の家族を赦しましたか?」「はい、神父さま。でも、二度とあの人の顔を見る事がありませんように。遠くに離れている方が良いのです。」彼らは塵を自分たちの目と神の目の中に投げ込んでいるのです。
 
心からの偽りのない赦しとは、その人のために祈ることができることであり、その人の善を望むことであり、また、あなたの心が平安で満たされている状態にあることです。昨日、わたしたちは赦しについて語り合いました。今日も昨晩のように赦しを祈る機会があります。もし誰かあなたを傷つけた人がいるのなら、神がその人を赦すという恵みをわたしたちにお与えくださるように。彼らを赦し、そしてあなた自身を赦すのです。
 
イエズスが示したもう一つの条件は、とてもシンプルです。「わたしのもとにきて、わたしを愛していると言いなさい。そうすればあなたの罪は赦されるでしょう」ということです。
 
イエズスが尋ねます。「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たち以上にわたしを愛していますか?」シモン・ペトロは答えます。「はい、主よ、わたしが愛していることをあなたはご存知です。」 

イエズスは繰り返します。「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たち以上にわたしを愛していますか?」「はい、主よ、わたしが愛していることをあなたはご存知です。」

イエズスは3度同じことを尋ねます。「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たち以上にわたしを愛していますか?」すると、ペトロは悲しくなります。ペトロはいつも土壇場になると極端な行動にでます。「主よあなたを決して裏切ることはありません!」と言い、イエズスを捕らえにきた手下の耳を切ったり。しかし、このときペトロはじっとしていてこう言います。「主よ、あなたはすべてをご存知です。わたしの罪、三度の裏切り、わたしの悲しみ、わたしの弱さ、すべてを。あなたはわたしがあなたを愛しているということをご存知です。」
 
イエズスは何と言ったでしょう?シモン・ペトロが「主の後継者ペトロ」となる場面です。 イエズスはこうおっしゃいました。「ペトロ、今まではあなたは自分の行きたいところへ行ってきた。しかし、これからは、あなたの行きたくないところへも他の人に引っ張られていくことでしょう。あなたの意志ではなく、わたしの意志によって。」

これが心からの告白の実りです。もはやわたしの人生でもわたしの意志でもなく、神の手にすべてをゆだねたのです。これが告白の実りなのです。そのような告白の後には、人はもはや重荷を背負わず、平安と喜びにみちた心で歩むのです。
 

 
福音の中で、わたしたちはイエズスがこう言うのを聞きます。「姦通者や徴税人たちの方が、あなたたちよりも先に神の王国にはいるだろう。」と。共産党政権が崩れ、クロアチアの体制が変わり、たくさんの人が教会に戻り、洗礼を受けました。昔からいつも教会に来ていて熱心に活動していた人がいました。共産党支持者だった多くの人たちが洗礼を受けて教会の一員になるのを見て、彼は腹を立てながらこう言いました。「もしこんな人たちが教会に来るなら、わたしはもう教会に行きません!」
 
行かなくて結構です。でも、わたしはこう言います。元共産党員だった人たちの方が、あなたより先に天国へ入ることでしょうと。
 
この人々は神のもとへと立ち戻ったのですが、いつも御父のそばにいた人たちをを見てごらんなさい。わたしたちのクロアチアの教会の中には、嘆き悲しんでいるクリスチャンがたくさんいます。日曜日にはテレビでごミサの様子が放映されますが、そこにいる人たちの顔を見てごらんなさい。葬式にでも来たかのように陰鬱な顔です。日曜日のミサですよ。復活されたキリストに向かって歌い、祝うべきではないですか!いつも典礼と共にあり、自分たちの聖堂をもち、教会とその伝統と共にいるわたしたち。けれど、わたしたちは干からび、自分たちに疲れてしまっています。なぜか、いろんなことが難しくなってしまっています。
 
すでに現役を退いていらっしゃいますが、司祭の勤めを何一つ怠ったことのない、とあるアメリカ人の老神父をわたしは知っています。彼は、朝には良心の糾明を行い、聖務日課を唱え、ミサをあげ、告解に耳を傾け続けました。しかし、わたしの講話に参加してくれたとき、彼はこう認めました。祈りにおいても、神との関係においても、全く喜びが無かったと。喜びが無いのですよ、みなさん!すべてを義務から行っていたのです。彼は言いました。「やらなくちゃいけない!やらなくちゃいけない!」と頭でっかちに考えてばかりいたけれど、そうでなかったら、もっと喜びを受けていたでしょうと。
 
みなさん。「〜ねばならない」のではありません。教会に来なくちゃいけないのではありません。神に祈らなくてはいけないのではありません。「ねばならない」と思うから、神を愛せないのです。

あたなが奥さんを愛するのは、他の人たちがあなたの奥さんを愛しているからでは無いでしょう?「あなたを愛しています。それが伝統だからです。」、「あなたを愛しています。あなたを愛するようにと育ったからです。」「あなたを愛しています。なぜならそれが掟であって、そうしないとわたしは告解に行かなくてはいけないからです。」 そんなことを奥さんに言ったら、彼女はあなたに何と言います?「あなた、狂っているわ!」
 
これを愛と呼べるのでしょうか?しかし、実際にわたしたちはそのような方法で神を愛そうとしているのです。教会にも儀礼の一環で来るようにしているのです。告解にもまったく同じことがあてはまります。復活祭やクリスマスがやってくると、何千という人が直前になって告解に駆け込みます。「みんな行ってるから、わたしも行かないと!」と。そして、犯してもいない罪について語るのです。「神父さま、わたしは盗みも人殺しもしたことありません。」「では、なぜわたしのもとへやって来るのです、聖人さま?」
 
何千人もの人が単に告解に来ることより、また、何千もの改心を必要としていないご立派な「聖人」のみなさんが告解にいらっしゃるよりも、たったひとりの罪びとが改心して来ることの方がはるかに天には喜びがあるのです。

そのことは聖書にも書かれています。自分の罪を正直に認める人たちには、イエズスは本当にいつくしみ深くやさしさをこめて接せられます。イエズスは罪びとをこよなく愛されました。しかし、ファリサイ人たちのように自分たちは罪を犯さず汚れもないと思っている人たちを、イエズスは非常に厳しく責められました。「白い墓石たちよ、マムシの子らよ、外側はこれほどにもなく清いが、内側は強欲で腐りきったものたちよ!」このような者たちをイエズスは激しく非難し、一方で罪びとたちを愛されました。
 
とある徴税人の家に、ファリサイ派の人たちや律法学者たちが入っていく場面を想像してみてください。食卓につき、料理が給仕されます。ローマのために貧しい人たちからもお金を巻き上げる徴税人たちは、ユダヤ人から見れば裏切り者と見なされていました。ですから、徴税人たちとテーブルに共につき、食事を共にすることは、ユダヤの法律によると汚れたことだと見なされ、また、自分たちをも汚すことだとされていました。姦通者やハンセン氏病者に触れると、自動的に自分たちも姦通者やハンセン氏病者になるとされていました。ファリサイ人にしてもサドカイ人にしても律法学者にしても、彼らはこの掟を厳格に守っていたのです。
 
しかし、イエズスは徴税人の家にも入られ、食事を共にします。イエズスは食事のことを考えていたのではありません。人間のことを考えていたのです。ですから、泥の中に入っていってください。泥のためにでなく、泥の中にはまってしまっている人たちのためにです。お互いの重荷を支えあい、助けあってください。
 
ある家でイエズスが席についていると、マグダラ出身で売春を商いとしている女性が入ってきます。彼女はローマ人の兵士たちだけでなく、望む人なら誰にでも自分の体を売っていました。彼女は涙でイエズスの足を濡らし、自分の髪の毛でふき取り、香油を注ぎます。みなさん、自分をイエズスの立場に置き換えてみてください。こっそり隠れた場所でではなく、多くの人前でそのことは行われています。あなたの足をその女性にあずけ、彼女の髪があなたの足を洗うのに任せてみてください。非常に深い親密さのうちに、彼女の手はやさしさを込めて足に触れていませんか?
 
けれど、彼女は普通の女性ではないのです。売春婦なのです。イエズスは、彼女が彼に触れることで、人々が自分をも姦通者と見なすことを知っていました。しかし、多くの目撃者がいる前で、そのようにされました。そして人々がささやくのを聞きました。「もし彼が預言者であるのなら、今、どんな女が彼に触れてるのか分かるはずだろうよ!」
 
イエズスは何と言ったでしょうか?「あなたの家にやって来たのに、あなたはわたしの頭に香油を注いでくれることもなかったが、この女は、わたしの足に香油を注ぎ続けくれている。あなたは接吻も与えてくれなかったが、彼女は私の足に接吻し続けてくれている。そして、あなたは私の足さえも洗ってくれなかったが、彼女は自分の髪の毛までも使って、わたしの足を洗ってくれている。」 

彼女は多く愛したから、多くの赦しを受けたのです。
 
通常、彼女の涙は罪の痛みによるものだとわたしたちは見なしています。けれど、イエズスご自身が「彼女の涙は愛の表れだ」とおっしゃているのに、なぜそのような解釈になるのでしょう?彼女の涙は喜びの涙であって、痛みの涙ではないのです。
 
みなさんは、このようないつくしみに満ちた神を信じることができますか?神はあなたを愛おしく思っているゆえ、あなたの罪や弱さに目を注ぐことはなく、あなた自身だけをありのまま欲しがっているということを信じることができますか?神から愛されるために自分を変える必要はないのです。神は今、あなたをありのまま愛しておられ、そんなあなたのために自分の命を捧げられたのです。
 
あなたは。このような神の無償の愛を信じることができますか?
 

 
この美しい情景で終わりにしましょう。みなさんはゴルゴタの丘に立っています。二人の盗賊の間で十字架にかけられているイエズスを見つめています。みなさんは、自分がその盗賊たちだと思ってください。

十字架の上で4箇所を釘付けられています。(手首を示して)ここが釘付けられた箇所です。手首の骨は70〜80kgは持ちこたえると医者たちは証言しています。手のひらではありません。さもなくば、手のひらは裂けてしまいます。手首に釘が打ち付けられたのです。そして、死の苦しみの中で血が流れ出ています。
 
ローマ兵が木片であなたの体の骨という骨を打ち砕くために待ち構えています。臀部、あばら骨、膝を叩き割っていきます。あばら骨を折ることで、骨が肺に刺さり、呼吸が苦しくなります。あなたは十字架の上で死につつあります。

みなさんも虫歯で歯が痛むときには、周囲の人のことなぞかまっていられないでしょう?その痛みでさえ、自分のことにしか注意を注げなくなります。でも、今、みなさんは十字架の上の掛けられているのです。どれほどの痛み、どれほどの苦しみでしょう?
 
イエズスを非難して攻撃している盗賊に目を向けてみてください。この想像を超える痛みと苦しみの中でさえ十字架の上におられる神を攻撃し続けることができるなんて、彼はどれほどの邪悪さに満ちていることでしょう?
 
同様に、十字架上の痛みと苦しみの中でキリストを弁護できるとは、もう一人の盗賊の心の中にはどれほどの善良さがあることでしょう?

さて、この盗賊は何と言いましたか?「イエズス、罪を犯して申し訳ありません。」と言いましたか?いいえ!「イエズス、お赦しください。」と言いましたか?いいえ!「イエズス、私は悔い改めます。」と言いましたか?いいえ!
 
では、彼は何と言ったでしょうか?彼はこう言いました。「イエズス、わたしのことを思い出してください。」と。
 
「愛の物語」という素晴らしい小説の中で、わたしはこのような文言に出くわしました。「あなたがすでに正しい愛で愛しているのなら、ごめんなさいは不要です。来るべき愛の応答を待ち望みなさい。」 愛すれば、あなたも愛されるのです。
 
この盗賊は、心から「わたしのことを思い出してください。」と言いました。イエズスは何と答えられましたか?三日後でもなければ、明後日でもありません。「今日、あなたはわたしと一緒に楽園にいます。」と。当時の盗賊と言えば、様々な犯罪で生計を立てていました。盗み、強姦、殺人や山賊行為。ここにいるみなさんは、そのような犯罪を犯したことないでしょう?
 
今この瞬間に死んだとしても、天国に行けると信じられますか?本当に信じられますか?神がわたしたちをそこまで愛しておられるということを信じられますか?死はいつやって来てもおかしくありません。けれど、神を愛しているという心をあなたが持っているのであれば、その気持ちをなくさないようしっかり見張っておいてください。死の瞬間に必要になりますから。愛は愛を引き寄せます。あなたは磁石のように神の方に引き寄せられるでしょう。
 
不幸な状態に陥ったとき、まず最初に告解に行こうとする人たちがいます。告解の秘蹟は、神から罰を受けないよう、過ちや罪に染まることなく神のもとに至るためのものとして機能しています。言い換えれば、自分たちの身を守るためのものになっているです。けれど、愛に溢れた天の御父から神の子どもたちであるわたしたち自身を守る必要があるのでしょうか?



スーダッツ神父 comments(2) -
Fr. Sudac the Stigmatist

sudac


ズラトゥコ・スーダッツ神父

(Zlatko Sudac、“スダッツ”とも言いますが、クロアチア語の発音に近い“スーダッツ”にしました。)


1971年1月24日、アドリア海北部のクルク島(クロアチア)生まれ。1998年6月29日に司祭に叙階され、クルク教区で司祭として活動。


1999年の5月、額に十字架の形をした聖痕を、そして、約1年半後の2000年10月4日、教会史上、最初に聖痕を受けたアッシジの聖フランシスコの祝日に、手首と足とわき腹に聖痕を受けました。彼はまた、多くの賜物を受け、彼のミサや黙想会に参加する人たちの多くは、深い神とのふれあい経験をし、彼の説教や講話を聞くために多くの人が彼のもとを訪れ、彼自身もあちこちに旅しています。


「 額にある十字架は、特に祈りを捧げているときに痛みます。また、特別な日、たとえば、月の最初の金曜日などには出血します。聖痕現象が起きる前は、異言の賜物、癒しの賜物、判断の賜物をいただき、それから徐々に知識の賜物もいただきました。聖痕現象が起きるようになってからは、他にも多くの賜物をいただきました。そのうちのいくつかには、非常にわたしも圧倒されます。ですので、いただいた賜物に慣れるまでには時間が必要です。特に、レヴィテーション(宙を浮く恵み)、バイロケーション(同時に二ヶ所に存在する恵み)、照明の賜物、来るべき出来事を知る知識などがそれです。 」


その聖痕を科学的に調べるため、ローマのジェメッリ病院で検査を受けています。広範囲にわたる徹底的な検査の結果、スーダッツ神父の聖痕は、人間の手によるものではなく、医療科学では説明のつかないものだと結論付けられました。


スーダッツ神父は、通常、クロアチアの「ベタニア」という黙想の家で、霊的指導者として人々の司牧をしています。教会と教区の司教や長上たちに従順であり、司祭職だけでなく彼自身の身に起こっている現象や賜物についても、すべて教会の権威に従っています。ちなみに、聖痕は人目をひかないよう、普段はバンドエード等で隠されています。


「 当時起きたこと(=賜物や聖痕を受けたときのこと)について語るとき、わたしは主への大いなる畏敬の念を感じます。多くの方々がこれらのことについてどう思うか尋ねて来ます。でも、わたし自身さえ分かっていないことを人々は知りたがっているのです。


イエズスは、その価値はその実によって識別されるとおっしゃっています。もし人々がわたしのミサや黙想会に来て神を体験し、自分自身を変えるなら、病気に苦しむ人たちが癒されるなら、仲たがいしている人たちが和解するようになるなら、神を冒涜していた人たちが、神との和解を求めるようになるなら、悲しみにくれていた人たちが、希望に満ちて家に戻るのなら、この「実」にこそ、わたしたちの目を向けなくてはいけません。わたしに注目しないでください。


いつも講話や黙想会においてこう言うのです。「みなさんがわたしを見るためにやって来たのであれば、みなさんは大変大きな間違いを犯しています。しかし、イエズス・キリストを求めて来たのであれば、ここにいてください。」と。わたしたちがフォーカスを当てるべきは贈り物を与えてくださる方にであり、贈り物そのものにではありません。わたしは、自分はイエズスの足が踏んで履いておられる「サンダル」だと感じます。このサンダルをイエズスが履き、神を心から求めている人たちのところに来てくださるのです。イエズスに忠実にお仕えする力を、神がわたしに与えてくださいますように。 」



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