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こちらは、ご縁があって我が家に来ていただくことになった、聖カタリナ・ラブレ(19世紀のフランスの修道女。聖母の出現を受け、あの有名な「不思議のメダイ」を作るように頼まれる。)の聖遺物(第1級)です。聖人の骨の欠片となります。(証明書にはex ossibus(骨)とあります。)
写真で見ると、聖遺物容れは小さく見えるかもしれませんが、かなりしっかりとした作りで、ずっしりと重いです。美しい刺繍が施され、中央に聖人の遺骨が静かに置かれています。聖遺物容れは、聖体顕示台のように非常に荘厳な容器が多いですが、こちらは、信徒がキスできるための容器のようです。
聖カタリナ・ラブレとは、昔から本当にご縁があります。
まず、古い教会暦では、彼女の祝日とボクの誕生日は同じ。(蛇足ですが、福者ヨハネ23世の誕生日と同じです。)そして、学生時代に初めてフランスに行ったとき、パリで不思議のメダイ教会にお邪魔して、いまだ腐ることなく残っている聖人のご遺体と対面。昔から来たいと思っていたこのチャペルに自分がいることに感激し、かなりの時間、そこで祈って過ごしました。祭壇の後ろにある聖母のご像がすごく美しいんですよね!また、不思議のメダイを通して、クリスチャンじゃない家族も助けてもらっています。
それ以前に、不思議のメダイとは、まだまだ洗礼さえ受けていない、おそらく小学生だった頃から手にしていたのを覚えています。実家のある福岡の大名町のカテドラル。まだ建て替え前の古いお御堂だったとき、横にあったセント・ポールの売店で、青や赤の透明のエナメルを施された美しいおメダイに心惹かれて、小さな聖母のご像と一緒に、優しくて聖人のような祖父(祖父はクリスチャンじゃありません)に買ってもらったように記憶しています。
ちなみに、今の教会暦では、ボクの誕生日は、アレクサンドリアの聖カタリナの祝日になります。どちらも「カタリナ」。「カタリナ」は、ギリシャ語では「Αικατερίνη(アイカテリーネー)」で、元は「καθαρός(カタロス:純粋)」から派生しています。
ボクも聖女たちに習って、純粋な人間になれますように!!!!!
Sancta Catharina, ora pro me!!!!!
昨日の主日の福音(ヨハネ6章51〜58節)は、聖体に関してほのめかす箇所でした。カトリックの教える聖体の神秘。それは、はたして正しいのでしょうか?
この後、「私の体を食べ、私の血を飲め。私の肉を食べ、私の血を飲む人は、永遠の命を得る。」というイエズスの言葉を聞いたユダヤ人たちは、彼を狂人と見なし、多くの弟子たちも、到底理解できないと主の元を去っていきました。聖書の中で、唯一、イエズスがあからさまに失敗した場面です。
なぜなら、当時のユダヤ人には、とても受け入れられる話ではなかったからです。人の体を食べることなどもっての他ですし、血は「命がやどるもの」。動物の血でも、口にすることを律法で固く禁じられていました。
しかし、イエズスは、去っていく弟子たちを止めませんでした。イエズスは多くのたとえ話をこれまでも話され、その意味するところを、少なくとも弟子たちには説き明かしてこられましたが、ここでは、「待て、待て。このことは、象徴的な意味での私の体について語っているのだ。」とはおっしゃいませんでした。
なぜでしょう?
「文字通り」だからです。
それは、原文のギリシャ語を見ても分かります。古代ギリシャ語には、「食べる」を意味する動詞がいくつかあります。一つは、「φαγω (ファゴー)」。もう一つは、「τρωγω (トローゴー)」。
「φαγω (ファゴー)」は一般的に「食べる」という意味ですが、「τρωγω (トローゴー)」は、より具体的で強烈、実際に食べている状況を表す「むしゃむしゃと食べる、噛み砕いて食べる」という意味です。ギリシャ語において「φαγω(ファゴー)」は隠喩的な意味や象徴的な意味にも使えますが、「τρωγω (トローゴー)」は使えません。
イエズスはヨハネ6章23〜51節の間で、まず「φαγω (ファゴー)」を使います。しかし、52節にあるように、それを聞いたユダヤ人たちは、「この人は、どうして自分の肉を食べさせることができようか?」と激しく論じあいます。そこで、イエズスは、彼の語っていることが象徴的な意味ではなく、本当に食べることだということを強調し伝えるため、ヨハネ6章54〜58節の間でトーンを上げ、「τρωγω (トローゴー)」を使います。
ちなみに、「τρωγω (トローゴー)」が聖書の中で出て来るのは、3箇所のみ。それは、このヨハネ6章54〜58節の間、マタイ24章38節、そしてヨハネ13章18節です。どの箇所でも、象徴的な意味での「食べる」ではなく、文字通り「食べる」状況でのみ使用されています。
また、「私の肉」というとき、「σωμα (ソーマ、体)」ではなく、より具体的な「σαρξ (サルクス、肉)」という言葉を用いています。福音書の中で「σαρξ (サルクス、肉)」が使われている箇所は、どれも、文字通りの「肉」という意味で使われています。(ヨハネ1:13-14; 3:6、 8:15、17:2、マタイ16:17、19:5、24:22、26:41、マルコ10:8、13:20、14:38、ルカ 3:6、24:39等)
つまり、聖書が伝えるのは、象徴的な意味のイエズスの体ではなく、実際にイエズスの体を食べよということなのです。それが、最後の晩餐の時、「とってこのパンを食べよ。これは私の体。この杯を飲め。これは私の血。(マタイ26章26〜29節等)」とイエズスが制定した聖体につながるわけです。
そして、聖書だけでなく、初期の教会の姿からも、聖体における現存が信じられていたことが分かります。
初代教会の教父の一人である聖イレネウスは、その著書の中で、「パンについては、それは大地から生まれたものだが、神を呼び求める祈りを受けると、もはやふつうのパンではない。この世と天国の二つの実存によって構成された聖体なのである。同じように私たちの体も、聖体をいただくと、もはや朽ちるべきものではなく、永遠の復活への希望を有すようになるのである。(『異端反駁』より)」と述べています。また、ローマから迫害を受けていた初期教会は、「キリスト者は人肉を食べ、血を飲んでいる。」と悪評を流されていたことからも、教会の初めから、聖体におけるイエズスの現存が信じられていたことがうかがい知れます。
パンは真のイエズスの体となり、ぶどう酒は真のイエズスの血となる。カトリックの信仰が教える聖体の神秘は、まさに聖書の教える通りなのです。
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