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月曜日の福音のある箇所をずっと思いめぐらせています。復活したイエズスが、墓に来た女性たちに、弟子たちにガリラヤへ行くように告げる場面です。
するとイエズスは、「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤへ行くように告げなさい。そこでわたしに会うであろう。」と言われた。(マタイ 28:10)
マルコの福音書にも、同じような箇所が出てきます。伝言する側は天使ですが。
さあ行って、弟子たちに、特にペトロにこう言いなさい。「イエズスは、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。かねてから言っておられたとおり、そこであなたがたはイエズスに会えるでしょう」と。(マルコ16:7)
復活後のイエズスは、なぜエルサレムでなくガリラヤで弟子たちと会われるのか?その理由は、聖書のどこにも記載されていません。
エルサレムからガリラヤ地方までは、100km強ほどの距離だそうです。だいたい人の歩く速さは4km/hなので、1日12時間歩いたとして、二日強かかります。決して近い所とは言えません。しかも、岩肌のごつごつした乾燥地帯ですから、旅も一苦労ではないかと思います。ちなみに、「ガリラヤ」はヘブライ語で「galil(ガリル)」で、「地区」や「地方」、「周辺」といった意味とのこと。エルサレムを中心としたユダヤ社会にとって、まさに辺境という感じなのでしょう。
さて、復活されたイエズスは、すぐに弟子たちに姿を示されるのではなく、なぜわざわざ遠いガリラヤで会われるのか?
ガリラヤは、弟子たちと最初に出会った土地だからではないでしょうか?初めて主と出会った時、弟子たちは、喜びに満たされていたことでしょう。そして、すべてを捨てて主に従うことを決心します。ですが、恐ろしい受難を目の当たりにして逃げた弟子たちは、悲嘆にくれ、希望を失い、信仰を失いかけていたかもしれません。しかし、ガリラヤにおいて復活した主に出会うことで、再び喜びに満たされ、原点に戻り、信仰を新たにするのではないでしょうか?ガリラヤは喜びの地であり、憩いの地であり、出会いの地であり、信仰を新たにする場所の象徴なのではと思いました。
また、私たちはイエズスを見失いかけたとき、エルサレムのような虚栄と雑音に満ちた環境ではなく、世俗的なことから離れた静寂さの中でこそ、イエズスと再会できるということも示しているのではないかとも思います。
この箇所を黙想して感じること、神学的な説明、その他もろもろ、ぜひコメントでシェアしてください!blog上でもこういう形でお互いの信仰を深めることができればと思います。
軽井沢で行われたMijoのセミナーにあずかって、早くも一か月が経とうとしています。
Mijoをはじめ、ヨゼフィーネさん、エミーナ、ガビィさん、その他、黙想会を支えてくださった方々に、改めて感謝!今回は、自分の信仰にとって、そして、これからの人生にとって、たくさんの恵みをいただきました。
セミナーに行く直前まで、本当にひどい霊的戦いが続いていました。心は荒み、怠慢もよいところ。セミナーが近づくにつれ仕事も忙しくなり、行くのをやめようかと前日まで真剣に考えていたほどです。ですが、招かれた者は必ず招くのがイエズスのご計画。これだけひどい状態なのだから、きっとその分、恵みが多いのだろうなと心の奥底では感じていました。
Mijoのセミナーも今年で3回目。毎度ほぼ同じメンバーですので、一年ぶりにあう「家族」に「ただいま!」と言う感覚です。人と人の間の壁がなくなり、安心して参加できるからこそ、祈りや黙想に集中できるのでしょうね。
ボクは正直、セミナーの間に何かをいただいているという実感や超自然的な体験はありません。でも、確実に何かをいただいているのを、セミナー後、内的に感じます。つまり、日常生活に戻ったときに感じているわけです。
今回は、自分の中で静かに恵みが働いているのを感じています。セミナー前と後では、内的には別人状態です。自分の惨めさ、弱さ、罪深さ、そういったものを改めてひしひしと感じています。けれど、それがボクを絶望させるのではありません。「これだけひどい人間なのに、無でしかないのに、神はなぜこれほどにまでボクに愛を注いでくださるのだろうか?あなたの愛を受けるに全くふさわしくないのに、それどころか、あなたに背を向け傷つけているだけなのに、どうしてこんなに大切にしてくださるのだろうか?」と、己の惨めさによって、神の愛を深く感じることができているのです。
ボクはイエズスの眼差しに心の中で目を向けます。聖書の中には、イエズスの眼差しが多々出てきます。愛にあふれ、どのような惨めな者も無条件に受け入れ、ご自身のうちに招きこむように深く、どこか憐みに満ちた悲しげな眼差し。この眼差しがボクの心を貫き、心に光を注ぎ、イエズスの現存を強く感じさせます。
先日、枝の主日のミサにあずかっていた時のことです。「棕櫚の葉を手に持って〜♪」となじみ深い聖歌が歌われました。それまでの栄光にあふれた歌詞と違い、3番の詞はこうです。
「御苦しみの日近く、我らの罪のために、いけにえとなり捧げたもう主。」
イエズスを迎える大勢の民衆のホザンナの歓声は、数日後には呪いの罵倒に変わります。ご自分の時が近づいているのを感じておられる主は、どのような苦しい心のうちに、ロバに乗ってエルサレムに入城されたことでしょう・・・。それでも私たちを救うために、迷わず前進されます。誰のためでもなく、私たちのためにゴルゴタに向かって苦しみのうちに前進されるのです。こんな、惨めな人間のために・・・。
ボクは涙が止まらなくなりました。
そして、聖変化と聖体拝領のとき。掲げられたホスチアを見つめていると、また、ご聖体をいただいていると、涙が止まらなくなりました。イエズスは小さなパンの形で、ご自身を余すことなく私たちに与えてくださいます。このパンは動くことも逃げることもできません。悪者が持ち運び、冒涜することもできてしまう無力な形です。そういう危険性があったとしても、それでも私たちにご自身を与えたいと願うイエズスの愛・・・。なぜそこまでして私たちのために・・・。
このことを思うと、主を冒涜する人たちのため(彼らも主によって創られた主の子どもたちです)、また、傷ついた主の体を癒すため、主の愛を知った私たちが祈り償わなくてはといたたまれなくなりました。
ミサの中で主の愛に包まれ、主の愛に心を貫かれ、涙したのは、メジュゴリエでの回心以来でした。あぁ、なんというミサの価値!!まさに四旬節のこの時期に感じている主のご受難と、それに続く復活が、ミサの中で毎度繰り返されているのですよね。
P.S.
セミナーの中でひとつ解けた謎がありました。以前、聖母子の絵のインスピレーションをいただき、ラフスケッチを描いていました。それを黙想会中に祈りながら清書していました。
ヨゼフィーネさんがいただいた美しい子守唄でMijoも大好きな「O Mein Leiber Jesus(私のイエスよ)」を歌っていたとき、「あ!」と気づきました。ボクの絵は、この歌を描いたものだったのです。聖母が幼いイエズスを優しくあやし、イエズスが小さなお手てで聖母の指を握っているという絵。まさに歌詞の内容と一致していました。
イエズスを裏切ったユダとペトロ。
ユダは奴隷の価格と同じ銀貨30枚で主を売り、ペトロは三度主を否定して逃げてしまう。しかし、二人とも人間である以上、救いのチャンスは最後の最後まであったはず。
二人を見つめるイエズスの眼差し。その眼差しは、咎を責め立てる眼差しではなく、人間の弱さを憐み、悲しみ、抱擁する眼差しであっただろう。
ヨハネは語る。ユダの裏切りに対し、主は「心が張り裂ける思いで」語られたと。
共観福音書では、ギリシャ語の「οὐαὶ(ウーアイ)」という言葉で、さらにユダへの憐れみが記されている。このギリシャ語は、「〜のことを考えると、胸が張り裂ける」という同情の悲しみ。ご自身の苦しみの真っただ中にあっても、いかにイエズスはユダを哀れまれ、ユダの魂が失われることをとても悲しまれたことか。
しかし、ユダはその愛の眼差し耐え切れず、絶望し、そして、おそらくそのプライドゆえに、イエズスに元に帰ることをしなかった。悪と闇の飲み込まれるまま、最後には首を吊って命を絶った。
ペトロは涙のうちに痛悔し、自分の弱さを認め、受け入れ、主のもとに跪き、主の愛の中に飛び込んで行った。主の赦しと愛に強められ、最後に彼は教会の基となった。
たとえどのような罪人でも、イエズスは哀れみ深く待っておられる。最後の最後まで、待っておられる。改心した者を主は赦し、受け入れるだけでなく、主の愛によって清め、さらに力づけてくださる。
だから、心に光を注いでくださる主の眼差しに、私たちは背を向けてはならない。
今日は、もうひとつのボクの誕生日。そう、洗礼日です。
1994年の復活祭前夜に、イグナチオ教会で洗礼を受けました。
ボクの家族にはクリスチャンは一人もいません。たまたま、ボクの幼稚園がプロテスタント系の幼稚園だったくらい。でも、なぜか当時から聖母が大好きで、子供なのに聖母がいるのはカトリック、自分はカトリックになりたいと思ってました。そして、ずっと聖母に導かれて成長しました。
大学で上京し、一人暮らしを始めて最初にしたことが、カトリックの洗礼を受けること。ただ、すぐに授けてもらえるのかと思いきや、最低1年は勉強してくださいと言われてがっかりしましたが・・・。
洗礼の日、忘れられないのは、ボクの額に洗礼の聖水が注がれ始めた瞬間に、外で教会の鐘が鳴りだしたこと。同席していた方(この方は元プロテスタントでカトリックに改宗された方)が、「天国の門が開かれたのですね。」とおっしゃってくださったのが、今でも強く記憶に残っています。こんな人間のために天の門が開かれたなんて!
ただ、毎週ミサにはあずかるも、土曜日は六本木のクラブで遊び、日曜はミサという不良信者。聖書もイマイチよく分からないし、イエズスの髭面がきらい。カトリックというラベルがカッコ良いと思っていたくらいですね。
でも、心の中に促しを感じて、メジュゴリエに行ったとき、すべてが変わりました。このブログでもシェアしている奇跡がボクの心を変えました。そして、聖母は一つの役目を終えられ、一歩下がってイエズスにボクを出会わせてくださいました。
こんなに惨めで、弱くて、本当に罪深い人間のために、まさに、文字通り「the least of the least」のために、天はなんという愛を注ぎ続けてくださっているのでしょう。
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