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ボクはグレゴリオ聖歌が大好きです。人間の声だけで構成されている点、体の芯まで響いてくる心地よい「ゆらぎ」、美しく神秘的でありながら素朴なメロディー。朝晩必ず聞きます。単なる気持ちよい「音楽」なのではなく、聖なる言葉に満ちた「祈り」ですから、心身を整えてくれます。グレゴリオ聖歌は、ココロのよどみを取り去り、疲れを癒し、余計なものを取り除き、神との静寂な交わりの中においてくれますよね。実際、悪魔祓いにたずさわっている人の著書に、エクソシズムにおいて悪魔に対して効力のある道具のひとつとして、聖歌があげられていました。
悪魔は音楽を通しても人に働きかけます。低俗な音楽は、人間の神経を逆立たせ、平安を奪い、気持ちをいらだたせます。中身を空っぽにしてしまいます。そして、神のことではなく、この世的なもので自分をいっぱいにしてしまいます。ですので、ここ最近は、まったくポップスも聴かないし、ラジオさえつけなくなりました。もともと聴かないジャンルではありますが、クラブミュージック(トランス系とかユーロビートとか)、エスニックミュージック、ラップやロック、ヘビーメタルは、その音に触れるだけで、体調が悪くなります・・・。いかに悪魔がそれらを通して働いているかがわかります。
グレゴリオ聖歌では、「ソレム派」と呼ばれるものが好きです。フランスのソレムにあるサン・ピエール修道院を中心とする聖歌です。旋廻が独特な点もありますが、あの「ゆらぎ」が最も心地よく聞こえるのが、ソレム方式の聖歌だと個人的に思います。
さてさて、最近またひとつ素敵な聖歌にでくわしました。カトリックではなく、ギリシャ正教の聖歌のひとつで、「Agni Parthene (アグニ・パルせネ(アグニ・パルテネとも):清らかな乙女)」というものです。ギリシャ正教の聖歌は、中東的な色合いの音色が強く残っおり、エキゾチックな感じと荒削りな感じがして、ボクたちが慣れ親しんでいるカトリックのやわらかな聖歌とはまた違います。「Agni Parthene」はまさに聖母を讃える聖歌のひとつですが、このメロディーがとても美しいんです。勇壮でありながらも繊細で、神秘的で、一度聴いたら離れない単純なメロディー。天上の音楽を聴いて書き取られたと伝えられているそう。
この歌は、生前から聖人の誉れの高かったエギナの聖ネクタリオスによって作曲されました。彼は正教会の司祭として生きている時から奇跡をおこない、死後、墓を移設するときに墓を開くと、芳しい香りがしたのだそうです。
YouTubeには、ギリシャ正教の聖山アトスにある修道院のひとつ、「シモノペトラ修道院」の修道士たちが歌っているものと、セルビア人の女性歌手が歌っているものとがありますが、どちらも素敵です。女性歌手の方は、歌詞が短縮されています。ギリシャ語歌詞をカタカナにしたものと、英語の訳を一緒に載せておきますね。
■ ギリシャ語歌詞:カタカナ標記
(さ:tha、サ:sa、ら:ra、ラ:laと、発音にあわせて書き分けています。)
アグニ パルせネ デスピナ アッハらンテ せオトケ
ヘれ ニムフィ アニムフェフテ
パるせネ ミティる アナサ パネドらセ テ ポケ
ヘれ ニムフィ アニムフェフテ
イプスィロテら ウらノン アクティノン ランプろテら
ヘれ ニムフィ アニムフェフテ
ハら パるせニコン ホろン アッゲロン イペるテら
ヘれ ニムフィ アニムフェフテ
エクランプろテた ウらノン フォトス カさろテら
ヘれ ニムフィ アニムフェフテ
トン ウらニオン ストらティオン パソン アイオテら
ヘれ ニムフィ アニムフェフテ
マりア アイパるせネ コスム パントス キりア
ヘれ ニムフィ アニムフェフテ
アッハらンテ ニムフィ パンナグネ デスピナ パナギア
ヘれ ニムフィ アニムフェフテ
マりア ニムフィ アナッサ ハらス イモン エティア
ヘれ ニムフィ アニムフェフテ
コり セムニ ヴァスィリッサ ミティる イペらギア
ヘれ ニムフィ アニムフェフテ
ティミオテら ヘるヴィム イペれンドクソテら
ヘれ ニムフィ アニムフェフテ
トン アソマトン セらフィム トン すろノン イペるテら
ヘれ ニムフィ アニムフェフテ
ヘれ ト アスマ ヘるヴィム ヘれ イムノス アッゲロン
ヘれ ニムフィ アニムフェフテ
ヘれ オディ トン セらフィム ハら トン アルハッゲロン
ヘれ ニムフィ アニムフェフテ
ヘれ イりニ ケ ハら リミン ティス ソティりアス
ヘれ ニムフィ アニムフェフテ
パスタス トゥ ログ イエら アンそス ティス アフさるスィアス
ヘれ ニムフィ アニムフェフテ
ヘれ パらディセ トゥろフィス ゾイス エオイニアス
ヘれ ニムフィ アニムフェフテ
ヘれ ト クスィロン ティス ゾイス ピヒ アさナスィアス
ヘれ ニムフィ アニムフェフテ
セ イケテヴォ デスピナ セ ニン エピカルメ
ヘれ ニムフィ アニムフェフテ
セ ディソポ パンタナッサ スィン ハりン エクセトゥメ
ヘれ ニムフィ アニムフェフテ
コり セムニ ケ アスピレ デスピナ パナギア
ヘれ ニムフィ アニムフェフテ
せるモス エピカルメ セ ナエ イギアスメネ
ヘれ ニムフィ アニムフェフテ
アンティラヴ ム りセ メ アポ トゥ ポレミウ
ヘれ ニムフィ アニムフェフテ
ケ クリろノモン ディクソン メ ゾイス ティス エオニウ
ヘれ ニムフィ アニムフェフテ
(余談ですが、「へれ(here:喜びたまえ!)」は、聖書にある古代ギリシャ語の「カイれ(chaire)」ですね!ガブリエルがマリアに挨拶した言葉です。"ch"は"h"、"ai"は"e"になったんだなと、言語学を勉強してた人間としては納得!)
■ 英訳歌詞
O pure and virgin Lady, O spotless Theotokos: Rejoice, O unwedded Bride!
O Virgin Queen and Mother, O dewy fleece most sacred: Rejoice, O unwedded Bride!
O height transcending heaven above, O beam of light most radiant: Rejoice, O unwedded Bride!
O joy of chaste and virgin maids, surpassing all the angels: Rejoice, O unwedded Bride!
O brilliant light of heaven above, most clear and most radiant: Rejoice, O unwedded Bride!
Commanding chief of heavenly hosts, O holiest of holies: Rejoice, O unwedded Bride!
O ever-virgin Mary, O Mistress of creation: Rejoice, O unwedded Bride!
O Bride all-pure and spotless, O Lady all-holy: Rejoice, O unwedded Bride!
O holy Mary, Bride and Queen, and cause of our rejoicing: Rejoice, O unwedded Bride!
O Maiden Queen most hon'rable, O Mother most holy: Rejoice, O unwedded Bride!
More precious than the cherubim, more glorious than the seraphim: Rejoice, O unwedded Bride!
Surpassing principalities, dominions, thrones and powers: Rejoice, O unwedded Bride!
Rejoice, song of the cherubim, rejoice, hymn of the angels: Rejoice, O unwedded Bride!
Rejoice, ode of the seraphim, and joy of the archangels:: Rejoice, O unwedded Bride!
Rejoice, o peace; Rejoice, o joy, and haven of salvation: Rejoice, O unwedded Bride!
O bridal chamber of the Word, unfading, fragrant blossom: Rejoice, O unwedded Bride!
Rejoice, delight of paradise, rejoice, life everlasting: Rejoice, O unwedded Bride!
Rejoice, o holy tree of life, and fount of immortality: Rejoice, O unwedded Bride!
I supplicate thee, Lady, I humbly call upon thee: Rejoice, unwedded Bride!
O Queen of all, I beg thee, to grant me thy favor: Rejoice, O unwedded Bride!
O spotless and most honored maid, O Lady all holy: Rejoice, O unwedded Bride!
I call upon thee fervently, thou temple most holy: Rejoice, O unwedded Bride!
O thou my help, deliver me, from harm and all adversity: Rejoice, O unwedded Bride!
And by thy prayers show me to be, an heir of immortality: Rejoice, O unwedded Bride!
「いつも同じ罪を繰り返してばかりで、自分は救いようがない・・・。」
「本当にこの罪を克服することなんてできるんだろうか・・・?」
「罪」というものに、人間の生活や信仰は大きく左右されています。「罪を犯すな!」と言われても、簡単なことではありません。一瞬一瞬が誘惑との戦いです。終わりなき戦いに疲れはて、悲嘆にくれてしまうことがあります。罪を犯さないことなど不可能なのだからと、信仰に対する疑念さえ湧いてくるかもしれません。
ですが、このように落胆してしまうことこそが、悪魔の最大の「誘惑」なのです!すべての人のすべての罪のために自らを捧げられた、イエズスの十字架のあがないの力に対する「冒涜」でもあります。イエズスのあがないの力は、罪の力より弱いのでしょうか?イエズスは死と罪に打ち勝ったのではなかったのでしょうか?
さて、全知全能であるはずの神が、このとてもはた迷惑な「誘惑」というものをこの世から取り去ってしまわなかったのは、なぜなんでしょう?狂わんほど人間を愛している神、愛そのものである神、一人ひとりにとって最善なものを与えてくださる神が、人間にとって無駄なものを残しておくことなど考えられません。ですから、「誘惑」には人間を成長させるために役立つ何かがあるはずなのです。
わたしたちは、「誘惑」に負けてしまった状態を「罪」に陥った状態と呼びます。「罪」とはどういう性格のものでしょう?聖書の原文は古代ギリシャ語で書かれていますが、古代ギリシャ語で「罪」は、「hamartia(ハマルティア)」です。この語は、「的(まと)から外れていること」を意味します。ちなみにヘブライ語で「罪」を意味する「chet(ヘト)」も同じ意味です。クリスチャンにとって向かうべき「的(まと)」とは何でしょう?それは、愛である神です。つまり、「罪」とは、人間が愛である神にまっすぐに向かっていかない状態のことです。
ボクたちは、自分の犯した罪ばかり数え上げ、その罪にばかり注目し、罪を犯してしまうことにばかり落胆していないでしょうか?神の方ではなく、自分のことにばかり目を向けていることが「罪」なのだと気づいているでしょうか?本当の「罪」とは、天のパパの愛の抱擁に飛び込んで行っていないことだということを理解しているでしょうか?
自己糾明を通して、自分自身の中にある罪深さ、弱さ、もろさ、ふがいなさを見つめ、謙虚に認め、心から反省することは、非常に大切なことです。この世に自分ひとりの力で生み出したものなど何ひとつなく、自分は本来「無」でしかないという現実を認め、そのことを受け入れることではじめて、自分を生かし、日々良いもので満たしてくれている神への感謝の念、神への憧れ、神への信頼、神にすべてを委ねる心が生まれるからです。そうすると、心は完全に自由になります。「無」であるからには、それ以上失うものがないからです。「自分はこうなくちゃダメ!」という「妄想」に執着しなくなるからです。それが、神と人間の関係を築くための第一歩です。ここがすべての霊的生活の始まりです。これ無しに先には進めません。
しかし、この良心の糾明段階にだけ留まり続けてしまう人たちがいます。自己糾明だけなら、善く生きようと努めている心ある人なら、誰でも日々行っていることでしょう。クリスチャンの改心は、次のステップに進むことが最も大切なのです。
「第一段階に留まってしまっている状態」とはどんな状態のことでしょう?それは、先ほど触れたように、自己糾明をしたのは良いのですが、その後、自分の犯した罪ばかり数え上げ、その罪にばかり注目し、罪を犯してしまうことばかりに落胆している状態のことです。罪のことを見つめてばかりいるがために、逆に罪の虜になってしまっているのです。だから、罪から抜け出ることができなくなってしまっているのです。言いかえれば、罪深さの中に自分を押し込めてしまっているのです。癒しを必死で求めているのに、自ら傷を絶え間なく作り続けているため、同じ罪を何度も繰り返して何度も告解するという悪循環に陥ってしまいます。
汚いものが汚い自分を見つめ続けていても、自分の汚さから脱することはできないでしょう。きれいなものを見ることで、自分がいかに汚れているか、本当の意味で気づき、そのときに初めてその汚れをぬぐいさることができるでしょう。
ですから、正しい罪の糾明と反省を終えた後は、すぐに救い主であるイエズスに目を向け、愛の神の愛の抱擁の中に飛び込まなくてはいけません。わたしたちは弱いからこそ、罪にすぐおちいるからこそ、本当に自分ではどうしようもないからこそ、両手を広げて待っている全能の神のもとへ走っていくべきなのではないでしょうか?
小さくて弱い子どもたちは、どういう行動を取りますか?自分ではどうにもできないとき、危険から身を守るとき、お父さんやお母さんに抱きつきませんか?それは、自分の弱さを痛感し、自分を愛し守ってくれるお父さんやお母さんのことを信頼しているからではないですか?わたしたちも霊的に弱く、助けが必要であるならば、同じように父である神に抱きつかなくては!
今一度、聖書が父である神をどう説明しているか思い出してみましょう。
どのように祈るべきかと弟子たちに聞かれたとき、イエズスは、神に「アッバ」と呼びかけるようにと言われました。これは、アラム語の幼児語で、「パパ」という意味です。天の宮殿に座す、威厳ある万物の王に対する話しかけ方ではありませんね。ボクたちは、神を「厳しい裁き主」として見てしまっていないでしょうか?イエズスの祈りは、神と人間の関係が親密な親子関係だということを教えてくれています。
また、放蕩息子のたとえ話を思い出しましょう。そこでは、父である神の姿、改心のあるべき姿が描かれています。放蕩息子は自分の財産を要求し、父親に背をそむけ、家を出て気が向くままに過ごしました。しかし、身をもちくずし、生きるにも窮し、惨めな状況に陥ります。そこで初めて反省し、父のもとに帰ることを決意します。息子が帰ってくるのを見た父親はどうしたでしょう?家に帰って来る我が子の姿を目にして喜び、父の方から駆け寄り、抱きしめ、良いもので満たし、叱責ではなく愛の言葉で迎えませんでしたか?この神を信じるクリスチャンは、罪を断ち切り、罪から解放されたいのであるのなら、愛である神の中に飛び込んでいく必要があるのです。
同時に、「わたしは罪人だから神に近づくことなど出来ない」、「神に御前に立てない」という、ニセモノの謙遜さの罠にはまっている人も少なくありません。ですが、何のためにイエズスは十字架に掛かったのでしょう?すべての人のすべての罪をあがなうためではなかったのですか?まさに、罪人であるわたしたちのためだったのではないですか?わたしたちの罪はイエズスの犠牲によって許され、十字架の神秘によって克服されるものではないですか?十字架の上で、イエズスは両手を開いて待っているのではないですか?
この第二段階に行くことこそが、クリスチャンの改心です。第一段階に留まってしまっているので、霊的な前進がないのです。単純に罪を犯さないことにばかり目を向けていると、神との一致に到達することはなく、「誘惑」は身を滅ぼすものとなってしまいます。つまり、悪化してしまう可能性さえあるのです。第一段階に留まる人は、罪深さを、神と人の間に溝を作るものとしてしまっています。ところが、第二段階に進む人は、罪深さを、神に近づくためのチャンスにするのです。「誘惑」と戦うことは、自分の弱さや惨めさを常に認識し、神をますます必要とすることであり、人を神の愛の中へと押しやることなのです。ですから、「神は愛である」ということを啓示されたクリスチャンは、第二段階に進まないといけないのです。
これらのことを思い巡らしているときに浮かんできたイメージを載せておきます。逆説的ですが、私たちは、「罪のおかげで」神に近づくことができるのです。正しくは、「罪」という人間にとって最大の敵であり最大の悩みをも、神は人々をご自分の愛の中に近づけるために利用されているということです。何たる神秘!「罪」は避けるべきものであっても、恐れるべきものではありません。神の無償の愛、無限の愛が、この世界のすべてを支配しているのですから。
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