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第10の掟は、「隣人の財産を欲してはならない。」です。
神はすでに第7の掟で、「盗んではならない。」とおっしゃっています。そして今また、「隣人の財産を欲してはならない。」とおっしゃいます。欲しがるなと。そのような考えをもつなと。なぜでしょう?なぜ神はこの二つの掟を定められたのでしょう?
それは、わたしたちが清らかな心を保つためです。でも、何のために?すべての悪はここから、つまり、わたしたちの心の中にわき起こる考えから始まるからです。ですから、わたしたちは自分たちの思いをしっかりと保っておかなくてはいけません。そうすることが、最良の償いとなります。
清らかな心。そして、しっかりと閉じた口。これが最良のアドバイスです。清らかな心と沈黙とがあれば、神の語られる言葉を静けさの中で聞くことができます。
これが神の十戒です。そして、イエズスは十戒を通して「愛の掟」を世に明かにされました。心をこめ、魂をこめ、思いをこめ、力の限り、全存在をかけて、神を愛すること。このことを可能にするには、わたしたちはまず告解をしなくてはなりません。これが条件です。まずこの務めを果たさないのなら、これ以上他にわたしは何のアドバイスもできません。
さて、思い出してください、ここまでにお話したことは、まだ霊的な生まれ変わりのための導入部分です。みなさんが悔い改めるための最初のステップです。「赦しの秘跡」の手法的な部分についても触れておきましょう。
一点目。「赦しの秘跡」は、霊的な会話の場ではありません。ですから、司祭のもとにやってきて、しばらく霊的なおしゃべりをする場ではありません。あなたが犯した罪について「これとこれとこれ」といった具合に伝えなくてはいけません。それから司祭はあなたがたにアドバイスを与えます。ためになるアドバイスを適宜伝えます。そして、果たすべき償いを与え、みなさんは自分の犯したことを悔やみ反省します。それで終わりです。これが「赦しの秘跡」というものであって、「霊的会話」ではないということを覚えておいてください。
二点目。どの司祭に告解しても、秘跡の効力は同じです。「こちらの神父様の方がもっと心理学的に分ってくださる。」云々を言う人がいますが、司祭は皆さんのため、そして神のためにここに存在しているのです。司祭が重要なのではなく、みなさん自身が、みなさん自身が心を開くことが、そして、みなさんの神への信頼が重要なのです。
三点目。このことが最も大切なことでしょう。告解においては正直であってください。例えば、クリスマスの時期、まわりの人々が告解しているからといって、自分も告解しなくてはとやってくる人たちがいます。しかし、この人たちは、自分たちが犯した罪のことではなく、自分たちが犯してもいない罪のことを話すのです。自分の罪深さを認めることを恥ずかしいと思っているのです。
もし、自分は罪深くないと思っているのであれば、間違いなくその人はとても罪深い人です。神に近づけば近づくほど、自分の罪深さをより深く感じ、神性に近づけば近づくほど、自分は罪人であるということをより深く感じるものです。
例を挙げましょう。ここにホコリで汚れたガラスがあります。そのホコリを払ってきれいにします。「よし、これできれいだ。」と満足します。しかし、そのホコリを電球に近づけてみてください。まだまだ残っているホコリを発見するでしょう。太陽の光に向けてみてください。いかに汚れているかが分るでしょう。同様に、神に近づけば近づくほど、自分の魂の中の汚れにもっと気付くのです。
自分たちはそこまで罪深くないと思っている人たちが告解に来るとき、わたしはしばしばこう言いたくなります。「なぜみなさんは来たのですか?」と。「わたしには罪がありませんとわざわざ言いに来たのですか?」と。「お帰りください。告解する必要はありません。」と。
ですから、告解においては、自分自身に正直であってください。また、罪を過小評価したり、逆に、必要以上に罪深く思ったりしないでください。ときどき、行き過ぎなくらいに自分の罪を断罪してしまっている人たちがいます。正直に、客観的に、明確に、「わたしは○○と○○と○○の罪を犯しました。ごめんなさい。」と司祭に告げてください。
悔い改めは非常に大切です。― 「ごめんなさい。」 ― もちろんですとも。「これらの兄弟の中で一番小さなものにしたことは、わたしにしたことなのです。」と主は言われているのですから。みなさんは、イエズスの御手に釘を打ち込んだのですよ。ゴシップやら憎しみやら、人々に対して行ったあらゆる悪は、神に対しておこなったことと同じなのです。
今夜のプログラムはここまでです。正直に、信頼の心をもって、聖霊のうちに告白してください。涙が出てくるときには泣いてください。大きな声で泣いてください。悲しみがみなさんの涙とともに流れさるままに。
みなさんは今日、力強い信仰の礎をいただきました。また明日からも続けましょう。アーメン。(終)
第9の掟は、「隣人の妻を欲してはならない。」です。
欲情の目で誰かを見ようとしないでください。他の男性や女性に欲情を抱くようなことを、自分に許さないでください。言うまでもなく、彼や彼女との行為に及ぶなど、もっての他です。
いったいどれほどの結婚が、離婚という形で終わってしまっているでしょうか?離婚の数があまりにも多過ぎます。今日、妾(めかけ)や愛人を持つことは、モダンでファッショナブルでカッコいいこととされています。家には料理や家事をこなしてくれる妻がいて、外には愛人を囲っています。そして、彼らは言うのです。「自分が愛人を持つように、妻も誰か愛人を作ればいいじゃないか。それが最近の流行りさ。」と・・・。
to be continued
第8の掟は、「隣人に関して偽証してはならない。」です。
わたしたちは皆、ここでつまずきます。全員です!
自分のことをジョークにしたり笑いの対象にすることは、人生を上手に生きて行く中で、時に必要な場合もあるかもしれません。
しかし、自分以外の誰かを傷つけるようなやり方でウソをついているのであれば、その人に災いがありますように!その人は、すぐに己を改めるべきです。陰口をたたいたり中傷したりして、誰かの不利益となるウソをつくことは、相手の未来にまで悪影響をもたらします。おそらく、みなさんもそのような出来事を目にしたことがあるでしょう。
特に小さな田舎社会では、そういったことがよく起きています。「退屈だから、気晴らしに誰かの悪口でも楽しみましょうよ。」 何かの噂を聞きつけると、そこに少し作り話を加えたりするのですが、悪口を言われている当の本人の耳元に届くころには、とてつもなく大きなホラ話に成り果てているのです。そして哀れな被害者は、作り上げられたウソを背負って生きていかねばならなくなるのです。かといって、そういう悪事を行っている人たちがいるのだという忠告を、誰も被害を受けている人にしてあげようともしないのです。なぜでしょうか?
忠告することで、その被害者が立腹し、すべての責任をあなたのせいにするかもしれないと恐れているからです。
人々はウソをつき、そのウソをまき散らし、被害者がその作られたウソの世界の中で生きて行かざるを得ないような状態に追いやっています。それなのに、その人を助けようとしないのですか?
もしかすると、わたしたちは、その被害者の人と一緒に祈りにあずかってるかもしれません。けれど、彼に近づいて、「こんな悪い噂が広まっているんだよ・・・」と正直に教えてあげようともしません。なぜなら、自分の評判に傷がつかないよう、自分を守ることしか考えていないからです。自分自身と自分自身の生活のことしか考えていないからです。
ですから、わたしたちは今日、誰かの奴隷になりさがってしまい、また、社会を取り巻く環境の奴隷になりさがってしまっているのです。誰ひとりとして、もはや真実を語らないのです。誰も!
しかし、それはキリスト教の教える生き方ではありません。聖書が何と言っているか、挙げてみましょう。「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼と二人だけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。もし聞いてくれないなら、他に一人二人を、一緒に連れて行きなさい。それは、二人または三人の証人の口によって、すべての事柄が確かめられるためである。もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。」
お子さんたちが薬物中毒になってしまったご夫婦の話です。自分の子どもたちがドラッグを使用しているということを一番最後に知ったのが、このご夫妻でした。近所の人たち、友人たち、親戚や兄弟、全員、この子たちがドラッグを使っていることを知っていたのに、みんな黙っていたのです。ついには薬物中毒となってしまいましたが、それでもなお、誰もこのご夫妻に教えてあげなかったのです。なぜなら、自分たちの評判の方が、この子どもたちの評判より大切だからです。
ウソはいたるところにあふれています。真実を語る新聞なぞ、もはや存在しないも等しいです。人類はウソで凝り固まっています。そして、「ウソの父」が誰なのか、誰しもが知っています。このことについては、明日お話します。どうか、よく耳を傾けて聞いてください。
to be continued
第7の掟は、「盗んではならない。」です。
国の盗人たち。盗まないでください!わたしたちの信仰は古めかしいものだと思い込ませること。信仰を盗まないでください!盗まないで!
正直であること。ここにみなさんの霊的な生まれ変わりがあります。家族においても仕事においても、正直であることを決心してください。一本のピンであっても盗まないように。
正直に生きるということは恥ずかしいことでしょうか?今日、正直であることは恥ずかしいことだとされてしまいます。わたしたちはあらゆる物事や価値観を逆さまにしてしまっています。あらゆることを歪曲してしまっています。間違った生き方をしているのです。
外面は完璧で、家をきれいに飾ることもできるし、化粧をして美しく着飾ることもできますが、中身は腐った墓の中のようになってしまっています。盗むなというメッセージをみなさんのポケットの中に入れておいてください。盗むようなことをするくらいなら、自分の手を切り落としてしまおうと自分に言い聞かせてください。
いつも騙しあい、誰もお互いを信じられないのなら、どのようにして新しい世紀を作り上げていくことができるでしょうか?まずはみなさんの自分の家庭の中から、正直であることを実践してください。
とあるご夫婦から聞いたことがあります。自分たちの子どもたちが盗みを働くかどうか試すため、わざと見えるところにお金をおいていたのだそうです。彼らは、一体、子どもたちに何をさせようとしているのでしょう!?お金を盗むようになってしまうのなら、ドラッグにも間違いなくてを出すようになるでしょう。子どもたちは働いていないからです。
わたしたちはあらゆる場所で盗みをはたらいています。物質的な盗みはもちろん、霊的な盗みもです。もし誰かの努力を横取りするのなら、わたしたちはその人の良い評判を盗んでしまっています。中には、あるポジションを得るために、自分の母親を売ってしまうような人さえもいます。人々は、自分自身が大丈夫なら、盗み、奪い取り、殺してしまえと思っているのです。
to be continued
2010年4月25日 メジュゴリエの聖母のメッセージ
愛する子どもたち!あなたたちがわたしの取次ぎを特に祈り求めているこのとき、かわいい子どもたち、あなたたちを祈りに招きます。あなたたちの祈りを通し、より多くの人の心がわたしのメッセージに対して開かれることを手助けするために。わたしの意向のために祈ってください。わたしはいつもあなたたちと共にいて、いつもあなたたちひとりひとりのために御子の前で取りなしています。わたしの招きにこたえてくれてありがとう。
Message of April 25, 2010
“Dear children! At this time, when in a special way you are praying and seeking my intercession, I call you, little children, to pray so that through your prayers I can help you to have all the more hearts be opened to my messages. Pray for my intentions. I am with you and I intercede before my Son for each of you. Thank you for having responded to my call.”
みなさんは主日の素晴らしさを理解していますか?
日曜日は、司祭のための日ではありませんよ。教会を信者でいっぱいにするための日ではないのです。日曜日はあなた方の家族のための日だということを分っていますか?
みなさんは、正気を失わせるようなこの世の中で、日々忙しく仕事をしたり学校に行ったりしています。ですから、日曜日は、両親や子どもたちが共に一つのテーブルに着ける一日なのです。家族と一緒に語らうことのできる祝福された時間なのです。ミサの後に家族との時間を大切にできる貴重な時間なのです。息子さんに学校はどうだったかと尋ねたり、共に語らい合ったり、家族の中でコミュニケーションを取るための時間なのです。そうすることで、わたしたちは、人間としての本来あるべき姿で振る舞うことができるようになります。
日曜日はあなた方のための日、あなた方のための特別な時間、あなた方の平安のため、そしてあなた方の家族のための一日なのです。祝福を受け、幸せに暮らせるための日です。さて、みなさんが家族と一緒に日曜日を過ごしたのはいつでしょうか?
もう一つ、わたしが気になっていることがあります。ミサに参列している信者さんを見ていると、家族がばらばら・・・。お母さんはあちら、お子さんはここ、息子さんは二階席に。ミサの後は、一緒に家に帰ることもなく、一緒に昼食を食べることもありません。旦那さんは自分の作業場に、奥さんは友人たちとお茶へ、子どもたちはひとりぼっち・・・。ダメです!彼らにとっての主日となっていません。
キリスト教や信仰は、みなさんの生活の中で実践されるものでなくてはなりません。就寝するとき、食卓についているとき、家族と一緒のとき、会社で働いているとき、これらすべてがキリスト教なのです。キリスト教とは具体的な生き方のことです。このセミナーに参加し、霊的に生まれ変わろうとすることだけでは十分ではありません。
どうか、わたしの話していることを理解してください。みなさんの家族、みなさんの父としてのあり方や母としてのあり方、みなさん自身、そしてみなさんの平安のためにこれらのことを話しているのです。
この第3の掟を何度も破ってしまったことでしょう。わたし自身も含め、全員何度も。なぜなら、神がわたしたちに何を望まれているかを理解していなかったからです。そして、それがいかにわたしたちにとって大切なことであったかということを理解していなかったからです。
to be continued
ご存知のとおり、わたしたちの国は下品な言葉にあふれています。人々は口汚くののしったり、けなしたり・・・。人々がいかに侮辱したりあざけったりするかは、信じられないほどです。神の御母やイエズス、 御降誕、イエズスの御血、聖人たち、秘跡、神、そして自分たちの命までをも冒涜する者までいます。そう、自分たちをも呪う人たちがいるのです。ののしるは、けなすは、本当に胸が悪くなります。しかし、教皇様がいらっしゃると、人々は簱を振ってにこやかに迎えるのです。
自分たちの国の言葉をいかに悪用していることか。恥です。しかし、日曜日になると彼らはミサにやってきます。「もちろんですとも。わたしたちはクリスチャンですから。わたしたちはローマカトリックですから。十戒は“あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。”と言ってはいても、下品な言葉を使ってはいけないとは言ってません。神への祈りの中などでそういう言葉を使わなければ問題ないですよ。」
自問してみてください。
これまで何度主の名をみだりに唱えたか?
そして、何度聖なる御名や聖なる単語を使って汚い言葉を吐いたか?
みなさんが極端にお利口さんである必要もなく、お利口さんぶる必要もありません。ですが、このことは、霊的訓練のまだ初歩の初歩なのですよ。この一番最初の部分をわたしたちが全うしないなら、他のことについて教えを説いてもまったく無駄です。まだ3割の人たちが神を冒涜し続けているのなら、どうやってこの共同体が霊的に成長することができるでしょうか?
【 訳者解説 】
実際に聖なるものを冒涜する人たちへの戒めも含まれていますが、ここで語られている内容は、日本人にはあまりなじみのない欧米言語独特のスラングや慣用句のことであると思われます。
欧米の言語のスラングや慣用句では、驚きや怒りを表す表現の中に、神の御名や聖なるものを意味する単語が使われていることがよくあります。例えば、英語では、みなさんもご存知の以下のような表現ありますね。
- "Oh, my God!"
- "Jesus!"
これらは、決してきれいな言葉として使われるのではなく、「くそ!」とか「ちきしょう!」とかいう意味で使われることも非常に多いのです。
つまり、誰かをののしったりバカにするときに、聖なる御名が使われているわけです。また、そういう用途でなく、単に驚いたときなどに使っているとしても、神への祈りでもないのに、みだりに神の名を唱えているのです。人々は別に神を呪うつもりで言っているわけでもなく、慣用句のひとつで発しているだけなので大丈夫だと思っている場合が多いのですが、そのことを神父様は戒めています。
to be continued
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