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Eucharist
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昨日の主日の福音(ヨハネ65158節)は、聖体に関してほのめかす箇所でした。カトリックの教える聖体の神秘。それは、はたして正しいのでしょうか?

この後、「私の体を食べ、私の血を飲め。私の肉を食べ、私の血を飲む人は、永遠の命を得る。」というイエズスの言葉を聞いたユダヤ人たちは、彼を狂人と見なし、多くの弟子たちも、到底理解できないと主の元を去っていきました。聖書の中で、唯一、イエズスがあからさまに失敗した場面です。

なぜなら、当時のユダヤ人には、とても受け入れられる話ではなかったからです。人の体を食べることなどもっての他ですし、血は「命がやどるもの」。動物の血でも、口にすることを律法で固く禁じられていました。

しかし、イエズスは、去っていく弟子たちを止めませんでした。イエズスは多くのたとえ話をこれまでも話され、その意味するところを、少なくとも弟子たちには説き明かしてこられましたが、ここでは、「待て、待て。このことは、象徴的な意味での私の体について語っているのだ。」とはおっしゃいませんでした。

なぜでしょう?

「文字通り」だからです。

それは、原文のギリシャ語を見ても分かります。古代ギリシャ語には、「食べる」を意味する動詞がいくつかあります。一つは、「φαγω (ファゴー)」。もう一つは、「τρωγω (トローゴー)」。

「φαγω (ファゴー)」は一般的に「食べる」という意味ですが、「τρωγω (トローゴー)」は、より具体的で強烈、実際に食べている状況を表す「むしゃむしゃと食べる、噛み砕いて食べる」という意味です。ギリシャ語において「φαγω(ファゴー)」は隠喩的な意味や象徴的な意味にも使えますが、「τρωγω (トローゴー)」は使えません。

イエズスはヨハネ62351節の間で、まず「φαγω (ファゴー)」を使います。しかし、52節にあるように、それを聞いたユダヤ人たちは、「この人は、どうして自分の肉を食べさせることができようか?」と激しく論じあいます。そこで、イエズスは、彼の語っていることが象徴的な意味ではなく、本当に食べることだということを強調し伝えるため、ヨハネ65458節の間でトーンを上げ、「τρωγω (トローゴー)」を使います。

ちなみに、「τρωγω (トローゴー)」が聖書の中で出て来るのは、3箇所のみ。それは、このヨハネ65458節の間、マタイ2438節、そしてヨハネ1318節です。どの箇所でも、象徴的な意味での「食べる」ではなく、文字通り「食べる」状況でのみ使用されています。

また、「私の肉」というとき、「σωμα (ソーマ、体)」ではなく、より具体的な「σαρξ (サルクス、肉)」という言葉を用いています。福音書の中で「σαρξ (サルクス、肉)」が使われている箇所は、どれも、文字通りの「肉」という意味で使われています。(ヨハネ1:13-14; 3:6 8:1517:2、マタイ16:1719:524:2226:41、マルコ10:813:2014:38、ルカ 3:624:39等)

つまり、聖書が伝えるのは、象徴的な意味のイエズスの体ではなく、実際にイエズスの体を食べよということなのです。それが、最後の晩餐の時、「とってこのパンを食べよ。これは私の体。この杯を飲め。これは私の血。(マタイ262629節等)」とイエズスが制定した聖体につながるわけです。

そして、聖書だけでなく、初期の教会の姿からも、聖体における現存が信じられていたことが分かります。

初代教会の教父の一人である聖イレネウスは、その著書の中で、「パンについては、それは大地から生まれたものだが、神を呼び求める祈りを受けると、もはやふつうのパンではない。この世と天国の二つの実存によって構成された聖体なのである。同じように私たちの体も、聖体をいただくと、もはや朽ちるべきものではなく、永遠の復活への希望を有すようになるのである。(『異端反駁』より)」と述べています。また、ローマから迫害を受けていた初期教会は、「キリスト者は人肉を食べ、血を飲んでいる。」と悪評を流されていたことからも、教会の初めから、聖体におけるイエズスの現存が信じられていたことがうかがい知れます。

パンは真のイエズスの体となり、ぶどう酒は真のイエズスの血となる。カトリックの信仰が教える聖体の神秘は、まさに聖書の教える通りなのです。




護教 comments(5) -
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Comment








>聖書の中で、唯一、イエズスがあからさまに失敗した場面です

う〜ん、そうですか。Taddyさんにはそう感じられましたか。
私にはヨハネ6章44節、64〜65節にある御言葉の成就のように
思えました。ここに書いて下さったのはとても大切な事ですね。
初代教会で信じられ守られていた事…いわば『信仰の原点』に
しっかりと基礎を置くという意味で。

今回アップされた晴佐久神父様のお説教もまさに<御聖体>でしたよ。
神父様は「食べる」トローゴー(τρωγω)ではなくて、
「記念」アナムネーシス(ανάμνησις)のほうに着目して
おられましたね。
(記事アドレスは http://www.fukuinnomura.com/?p=1857
  
それにしても「訳語」って難しいと思いませんか。
「イエスの兄弟」といっても、アラム語とか中近東の言葉では
兄弟といとこも同じで区別がない、と聞いたことがあります。
初代教会の頃から口頭で伝えられてきた内容が一緒に伝えられず、
「文字情報」だけが独り歩きした場合は、正しい聖書翻訳も解釈も
難しいでしょうね。

初代教会における信仰・信心の研究は、
きっと教派いかんに関わらず必要ですね。
良い記事をありがとうございます。
 
from. からやん | 2012/08/22 20:00 |
>> からやんさん

神父さまのブログの紹介、ありがとうございます。早速読ませていただきました。

「記念」と訳されるギリシャ語の「αναμνησις(アナムネースィス)」も、ヘブライ語の「zikaron(ズィカロン)」も似たような意味を持っていて、「記念」とは、「頭の中で思い出すこと」ではなく、「過去の出来事に身をもって参加すること」を意味します。

ですから、「私の記念として行いなさい」と主が言うとき、私たちは単に過去にあった出来事を思い起こして記念をするのではなく、あの夜のイエズスの晩餐にまさにともにあずかっているわけですよね。

なので、神父さまのおっしゃる通り、「記念(αναμνησις)」という言葉の本来の意味を理解することは非常に大切で、この言葉は、ミサでは最後の晩餐の出来事がまさに目の前で起っていることを教えてくれます。そのことを、ボクたちは知っておかないといけませんね。

ただ、「記念」という言葉はミサの意味を表していますが、ご聖体がイエズスの真の体であるということを示しているのは、やはり「τρωγω(トローゴー、むしゃむしゃと食べる)」だと思うんです。

ヨハネ6章48〜51節で、イエズスは、「わたしは命のパンである。・・・これを食べる者は死ぬことがない。・・・わたしが与えるパンは・・・わたしの肉である。(このときは、まだ一般的な「食べる」の「φαγω(ファゴー)」)」と言い、ユダヤ人たちが一体どういう意味だと騒ぎ始めると、53〜58節で「人の子の肉をたべ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。等々(ここからは「食べる」が、より実際に食べていることを表す「τρωγω(トローゴー、むしゃっむしゃと食べる、噛み砕いて食べる etc)」)」に変わります。そして、「わたしの肉は、真の食べ物」と強調されますよね。この「真の」は「αληΘως(アレートース)」「本当に、実際に」という意味です。

ですから、この部分は、当時のユダヤ人にはとても理解できない&受け入れられないことでしたが、イエズスが本当に自分の体を食べよと言っていることを語っている大事な箇所ですね。

また、プロテスタントでは、聖餐はシンボリックな記念となり、ご聖体の神秘も否定されてしまいましたが、カトリックが勝手にミサと聖体の神秘を作り上げたのではなく、聖書の伝えるイエズスの言葉を忠実に守っていることを示しています。

おっしゃる通り、訳語って、とても難しいですよね。文化背景によって意味するものが異なったり、ニュアンスが異なったり。でも、それを知ることもとても大事。

アラム語と兄弟でもあるヘブライ語で「慈悲」を意味する「rachamim(ラハミーム)」の元は、「母の胎」を意味する言葉ですし、「平和、平安」を意味する「shalom(シャローム)」は、「神の恵みによって、その人の存在が根本から満たされている状態」を元来表してますから、単純に日本語や英語だけで読んでいても、見落としてしまう大切な意味がたくさんです。

逆に言うと、聖霊の導きで聖書を読み黙想するのはもちろんのこと、元の語が持つ意味を知っておかないと、なかなかキリスト教の概念を掴みきることができませんよね。

そして、言葉だけでなく、使徒の時代からの伝統があることも、大きな財産になっていると思います。神に感謝。
from. taddy | 2012/08/22 21:36 |
>元の語が持つ意味を知っておかないと、
>なかなかキリスト教の概念を掴みきることができませんよね

うん、そうかも知れませんけど、すべての人がTaddyさんのように
語学や文化について豊富な知識を持っている訳ではありませんね。
その一方で、子どもからご年輩の方まで、聖書を読んだり御ミサでの
お説教を聞いたりするでしょう。

初代教会から伝えられている信仰箇条と教義について、慎重に研究し
まとめたものを、教会は『カテキズム』という形で呈示しています。
そのおかげで私のような者でも、この貴重な宝に近づく事ができます。
ありがたいことです。

本来、<御聖体>をはじめ7つの秘跡を中心とする偉大な知識の遺産は
キリストを救い主として受け入れているすべての信徒に開かれている
はずのものですが、この「知識の遺産」の存在自体、知らされていない
信徒の方がいらっしゃるというのは大変不自然で残念な事と思います。

Taddyさんのこの素晴らしい知識と熱意が、
神さまがお望みになる場所で
活かされますよう願っております(*^^*)
   
from. からやん | 2012/08/23 11:08 |
>> からやんさん

その通りです!だからこそ、神学者や司祭が、もっと聖書が伝えようとしている霊的な意味を、信徒に伝えていかないといけないのですよね。もちろん、個々人が勉強する必要もありますが。

個人的には、ミサの説教は、読まれた福音を説くためにあるものと思っているので、そういう場で、福音の持つ意味を掘り下げて説明する必要があると思います。「ことばの典礼」とは、そういうことではないかと思うんです。

> 本来、<御聖体>をはじめ7つの秘跡を中心とする偉大な知識の遺産は
> キリストを救い主として受け入れているすべての信徒に開かれている
> はずのものですが、この「知識の遺産」の存在自体、知らされていない
> 信徒の方がいらっしゃるというのは大変不自然で残念な事と思います。

おっしゃる通りですね。プロテスタントの方々の多くは、この遺産を捨ててしまいましたが、カトリックだとしても、その遺産の価値を理解している人は多くないように思います。

プロテスタントからカトリックに改宗された方々は、カトリック以上にカトリックが使徒たちの時代から保持してきた宝の豊かさを実感されていて、特にご聖体の神秘がいかに聖書的で、また、いかに人間の想像を超えるすごい恵みかを強調し、それをプロテスタントの兄弟姉妹に分かち合いたいと熱望されますし、カトリックにもその素晴らしさを気づいて欲しいと願われる方が多いですよね。彼らの証しを通して、自分たちの信仰のありがたさを再認識させてもらうことが非常に多いです。

昔は、神学等は、知識的過ぎて霊的なものを損なうおそれがあると個人的に感じていましたが、しっかりと聖書が本来もっている意味を読み解き、教父たちの残したものや、教会がカテキズム等を通して伝えることを学ぶことは、より深く神を知ること、そして、現された神の愛の深さをもっと知ることになるなと痛感する今日この頃です。
from. taddy | 2012/08/23 15:08 |
>個人的には、ミサの説教は、読まれた福音を説くためにあるものと
>思っているので、そういう場で、福音の持つ意味を掘り下げて説明
>する必要があると思います。「ことばの典礼」とは、そういうこと
>ではないかと思うんです。

>昔は、神学等は、知識的過ぎて霊的なものを損なうおそれがあると
>個人的に感じていましたが、しっかりと聖書が本来もっている意味を
>読み解き、教父たちの残したものや、教会がカテキズム等を通して
>伝えることを学ぶことは、より深く神を知ること、そして、現された
>神の愛の深さをもっと知ることになる


うーーん、素晴らしい!!
こういう神父様にお会いしたいです!

お祈りします!!
  
from. からやん | 2012/08/23 16:56 |
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