スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

- - -
The King of Hearts
 jesus
 (イコン風)


jesus


jesus


pattern


先日、「Salve Regina」を完成させたばかりですが、また一枚、絵が完成しました。

この絵は、ドイツの和歌子さんから依頼を受けて、Mijoのグループのために描き出したものです。「心の王」というお題からインスピレーションを受けて描いたイエズスです。王冠を戴き、片手には王権を表すと同時に全世界や人々の心を表すオーブを持ち、もう片手は祝福のため挙げられています。赤いマントは聖霊を表すとともに、全知全能さを表しています。聖心が激しく光り輝き、人々への愛で鼓動しています。

実は、つい先日、和歌子さんが素晴らしい話をシェアしてくれました。Mijoのグループにビジョンを見る賜物をもった方がいらっしゃるそうですが、「聖なるかな(Sanctus)」を歌っているときに、「王冠をかぶり、白い衣を着た御父かイエズスが玉座に座り、片手に地球を持ち、片手を挙げて祝福を送られている」ビジョンを見たそうです。

和歌子さんと別のドイツ人の方が、このビジョンの話を聞いてビックリしたそう。そう、まさに、ボクが描いていたイエズスの姿と同じだからです!!もちろん、ビジョンをいいただいた方は、この絵のことはまだ知りません。



イエズス comments(2) -
Nativitas Domini
(c)ignatius_taddy photographed at st. ignatius', 2010 (C) taddy

st_ignatius photographed at st. ignatius', 2010 (C) taddy

st_ignatius photographed at st. ignatius', 2010 (C) taddy


st_anselmus photographed at st. anselms', 2010 (C) taddy

st_anselmus photographed at st. anselms', 2010 (C) taddy

st_anselmus photographed at st. anselms', 2010 (C) taddy

st_anselmus photographed at st. anselms', 2010 (C) taddy

st_anselmus photographed at st. anselms', 2010 (C) taddy

st_anselmus photographed at st. anselms', 2010 (C) taddy

st_anselmus photographed at st. anselms', 2010 (C) taddy

st_anselmus photographed at st. anselms', 2010 (C) taddy


Merry Christmas!
Joyeux Noel!
Buon Natale!
Faliz Navidad!
Frohe Weihnachten!
Boldog Karacsonyt!
Sretan Bozic!
主のご降誕、おめでとうございます!

イブは目黒の聖アンセルモ教会、クリスマスの朝は聖イグナチオ教会でごミサにあずかりました。そのとき撮った写真をつらつらとアップしてみました。ボクの所属は聖イグナチオ教会ですが、クリスマスイブにはカップルや家族連れがクリスマスの雰囲気を味わいに訪れるので、すごい人混み!!ですから、ここ数年は目黒の方にお邪魔してます。モダンではあるけれども、さすが元ベネディクト会の教会だっただけあって、あの瞑想的な雰囲気が大好きです。聖母のイコンにろうそくがささげられるのも、この教会くらいかもしれませんね。

みなさんは、素敵なクリスマスを過ごされましたか?

26日は、夕方に用事があったため、大森教会で朝のごミサにあずかりました。しばらくこちらにはお邪魔していなかったのですが、主任司祭が変わっていらっしゃいました。金曜日の夜の聖体礼拝(ベネディクション)もなくなっちゃったのかなぁ・・・。でも、こちらのごミサにあずかってよかったと思ったのは、聖書朗読を子どもたちがやっていることです!まだ小学校低学年と思われる女の子と男の子が、第一朗読と第二朗読を元気よくやっていました。祭壇の天使たちのようで、本当に心洗われました。

今日は、ボクの霊名(ヨハネ・マリア・ミカエル)の一人である、使徒聖ヨハネの祝日。天の兄さん、ボクのために祈ってて!!
イエズス comments(0) -
Present
eucharist

pattern

先日、誕生日を迎えました。

天地創造の前から、神さまは「ボク」という一人の存在を作ること計画されてたという、この途方もない神秘を思いめぐらせると、ただただ神の創造を超える愛に圧倒されます!

世のはじめから世の終わりまで、どの時代の世界のどの場所にも「ボク」という存在は、二人としていません。つまり、「ボク」という存在が、「唯一無二」であること。この事実が、神のひとりひとりへの愛を証明していると思います。人間であれば誰でも良いのではありません。人間は量産されているのではありません。神さまにとって、ボクは「ボク」じゃないとダメなんです。どれだけちっぽけで、どれだけ無力で、どれだけ惨めな存在であっても、神さまにとっては「ボク」じゃないとダメなんです。このことを日々思いめぐらせて、神の愛の神秘に心を開きましょう。

さて、誕生日当日、イエズスは、うれしいプレゼントを与えてくれました。ボクはすべてに感謝するため、ミサにあずかりました。聖体拝領のとき、口に受けたのは、いつものホスチアではなく、神父さまがミサ中に聖変化させて割られたホスチア。カリスの中には、その一片しか割られたホスチアはありませんでした。あ、ちなみに、ボクからお願いして「それをください!」と言ったのではありませんよ!聖体奉仕者が、そのホスチアを自然とボクの口に運んでくれたのです。通常のミサ内で、神父さまのホスチアをいただいたのは、15年前に洗礼受けてから2回目くらいじゃないかな。ずいぶん昔に、ヴァチカンから来られていた司教様のミサでいただいたことがありました。

この"バースデープレゼント"を拝領したとき、心の中でいたずらっぽく微笑んでいるイエズスの目と視線が合った感じがして、うれしくなりました。イエズス、素敵なプレゼントをありがとう!!
イエズス comments(2) -
Immanuel

mary_icon

pattern

 「見よ。おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう。」これは、「神われらと共にいます」という意味である。
(マタイ 1:22-23)

今日の福音に出てくる節です。「インマヌエル」と呼ばれる救い主。「神われらと共にいます」という意味のその御名。なんとも素晴らしい神秘をこの御名は啓示してくれていることでしょう!

キリスト教の神は、人との深い交わりの中におられる神です。誘惑のときも、試練のときも、逆境のときも、すぐそばに一緒いてくださいます。日々の生活の毎瞬毎瞬、一緒にいてくださいます。今も生きている生き生きとして非常に現実的な存在です。

ユダヤ教やイスラム教の間違いは、神を遠くに追いやってしまったことだという記事を読んだことがあります。彼らは、人となられた神イエズスを、預言者以上のものとしては受け入れられません。イスラムはイエズス(イーサー)を預言者としてはたいへん尊敬しています。ですが、クリスチャンがイエズスを神である人としてみなすことは、「偶像崇拝」としてしまいます。

しかし、キリスト教で示されたのは、「愛の神」。天の高みから人間界を見下ろしている創造主ではなく、身をかがめ、人の視線から人と一緒に生活を共有してくださる神です。

それは、いかに神が人間を愛し、神にとって人間という存在がこの上もなく大切かを示しています。

神は全知全能の方。人類創造のとき、人間が誘惑に屈し、堕落し、ご自分の愛に背を向けることはすでに予見されていたことでしょう。それでも人間を愛していたので、創らずにはいられなかった!蛇の誘惑で人間に原罪が入ったとき、すぐに救いの約束を宣言されます。そして、ご自分のひとり子に人間の罪を背負わせ、ご自分のすべてを捧げつくすことを通して人間を解放されます!

あまりに人間を愛するあまり、全能者は自ら肉をまとい、人となり、人間と苦楽を共にされるのです!苦しみや悲しみや絶望とは無縁の天の玉座から降りたち、人に仕える者となれらたのです!愛はもっとも弱くもっとも強いものなのです。なぜなら、人間の弱さは全能の神を惹きつけ、全能の神を無力なものとするからです!

人間にはなんという途方もない価値があるのでしょう。天使たちでさえ、このような恩恵にはあずかっていません。神がここまで愛しておられる被造物は、人間“だけ”なのです。

今日は、典礼上では聖母の誕生日。この神の愛の素晴らしい神秘を実現するために選ばれた乙女マリア。そして、自由意思をもって神の救いの計画にすべてを捧げた乙女マリア。彼女という存在をわたしたちのために与えてくれた主に感謝します!聖母という存在を思いめぐらすと、主の愛の深さを褒めたたえずにはいられません!聖母という存在があるからこそ、私たちは神の愛の深さをますます理解できるのです。そして、それがカトリックの偉大な財産なのです。

イエズス comments(0) -
Infant Jesus
infant_jesus



「自分には神は遠い存在だ。」


そう感じている人たちって、クリスチャンであったとしても、多いかもしれません。イエズスに近づきがたく思っている人は少なくないかもしれません。あるいは、キリスト教を信じたくても、自分自身を罪深い存在だと痛感するあまり、一歩を踏み出せない人たちもいるかもしれません。


そんなときは、「幼子イエズス」に目を向けてください。


全知全能の神は、人間を狂わんほどに愛するばかり、天国の頂から地に降りてきて、ボクたちと同じ視線、同じレベルまで降りてきてくださいました。しかも、すべての人をひれ伏させることのできる神々しい王としての力強くきらびやかな姿ではなく、聖母の胎を通して、静かにひっそりと、小さく無力な赤ちゃんの姿で、人間の世界に来てくださいました。


ここには、二つの神秘があると思います。一つは、神が女性の胎をわざわざ通って来たことで、生命を育む母親の胎というものが、いかに神聖なものであるかということを示そうとしたのではないでしょうか?同時に、神が赤ちゃんの姿を取ってこの世来たということは、赤ちゃんという存在の大切さを強烈に示すと共に、人間と同じように成長の段階を踏んで行く事で、人の成長のそれぞれの段階に意味があることを神自ら身をもって示し、それぞれの段階を祝福したのではないでしょうか?


そして、もう一つの神秘。それは、大きくなるためには、何よりも小さくならなくてはならないこと、力強くなるためには、何よりも無力になること、豊かになるためには、何よりも貧しくならなくてはならないことを、赤ちゃんの姿を通して教えておられるのだと思います。


事実、赤ちゃんはこの社会で最も弱く、無防備で、自分では全く何もすることができず、周囲にされるがままです。神がそのような姿を取って生まれたということは、誰でも安心して近づくことができるようにという配慮だと思います。そのかわいい頬や小さな手にキスし、人間の方から神を抱きしめることができるようにという配慮です。これは、想像を絶するすごいことですよ!全能の神から哀れな人間を抱きしめてくださることは容易に理解できますが、本来、最も神聖で不可侵な存在を、罪深い人間の手自ら抱きしめることができるのですから!そのように神は招いておられるのです。警戒せず、自分の方に近づくようにと!


神は遠くて近づきがたいと思っている人たち。今すぐ、幼子イエズスのもとへ行き、彼を優しく抱き上げてください。





イエズス comments(0) -
| 1/1 |