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Faith



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久しぶりに、スーダッツ神父のお説教を訳してみました。
(  聖痕を受けているスーダッツ神父の簡単な紹介記事はこちら。  http://reginapacis.jugem.jp/?eid=18  また、CATEGORYから「スーダッツ神父」をクリックしてもらえれば、他のスーダッツ神父の説教記事も読めます。)

今回は、「信仰」についてです。「信仰」とは何か?分かっているようで、実際には信じることができていない自分がいることに気付くと思います。スーダッツ神父の力強い言葉は、「信じる」という挑戦を私たちの心に突き付けます。確かなことを信じるのではなく、神に信頼して不確かなことを無条件に信じること。これが信仰だと。そして、信仰だけではダメで、聖霊の働きがそこになければいけないと。

元の動画はクロアチア語で、それに英語の字幕が付いているのですが、その字幕の英語が意味をなさない部分が多々あったため、一部、私の解釈を通して訳したり、元の訳を削除している部分もある点は、ご了承ください。


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親愛なる皆さん。

家でひとり静かに福音を手にし、イエズスの時代に行われた奇跡について読むとき、また、使徒言行録において初期の教会について読むとき、私はこう自問します、「主よ、私たちはどうしてしまったのでしょう?今日、信仰はどこへ行ってしまったのでしょう?」と。

イエズスの時代のような目に見える奇跡が、なぜ今日起きないのでしょうか?イエズスがラザロを死者の中から甦らせたような奇跡が、なぜ今日起きないのでしょうか?

死者を甦らせることを、私は「復活」とは言いません。なぜなら、「復活」は世の終わりにもたらされるものだからです。イエズスはラザロを死者の中から甦らせましたが、ラザロはいつの日かまた死ななくてはなりません。しかし、埋葬されて三日経った人の墓の前に立ち、「イエズスの御名によって起き上がりなさい!」と言える人がいないのはなぜでしょう?「イエズスの御名によって起き上がりなさい!」と呼びかけると、実際に人が甦るような、目に見える神の奇跡が今日起きないのはなぜでしょう?

なぜこれらのことが今日難しすぎるのでしょう?なぜキリストを私たちの心に迎え入れることが難しいのでしょう?一体私たちはどうしてしまったのでしょう?

信仰が弱いのです!あまりにも弱いのです!

私たちは、そのようなことが実際に起るということを、信じることさえできていないのです。「たしかに、奇跡の話を耳にすることは素敵なことだけど、それはキリストの時代の話でしょう?」キリストが復活され、今や生きておられる今日でも、このようなことが起ることを信じれないでいるのです。これが一つ目の理由です。

信仰が弱い二つ目の理由。イエズスがキリストであると公言しても、私たちは殴られるようなことはありません。イエズス・キリストを認めても、パンに飢えるような状態に追いやられませんし、職を失うこともありませんし、学校で子供たちがいじめられることもありません。他の地域ではどうかわかりませんが、私たちの住む西側諸国では、キリスト者でいることがあまりにも簡単なのです。しかし、キリストに仕える者は、誰よりも先に人々にとっての行く道を照らす光であり証人でなくてはならないのです!

ある人たちが、内戦時代のヴコヴァール ( 訳注: クロアチア東部にある人口約3万人の町。内戦時代、非常に被害を受けた町のひとつ。 ) での出来事について証ししてくれました。数ヶ月間、彼らは地下に隠れていましたが、当時、悪を行う者たちが、爆弾をあらゆる穴に投げ入れていました。あるとき、空気孔を通じて爆弾が内部に侵入し、半径10m程の掩体壕内に落ちました。しかし、爆弾はまったく違う場所で爆発し、誰一人ケガすることなく、全員が生き残りました。

私は彼らに尋ねました。「そのとき、皆さんは何をしていたのですか?」と。彼らは応えました。「神に祈っていました。」ですから、彼らが生きながらえたことは、驚くことではありません。

けれども、私たちの心の中にあるものが邪魔をします。なぜ私たちはいつも心を抑圧するのでしょう?重い病気、事故、早すぎる死。その時、私たちは神に向かって叫び声を上げていますか?なぜ願ったものが与えられるよう、切実に祈り求めないのですか?主のドアを叩けば、彼は与えてくれるのです!神は与えるのです!「祈るときには疑ってはいけない、そして祈り求めていることを信じなさい。」とハッキリと聖書に書かれているではありませんか。祈るときには、熱心に祈り、決して疑ってはなりません。そして、神は与えてくれるということを知っていなくてはいけません。

信仰とは何でしょう?みなさんは、信仰とは何だと思っていますか?人は誰でも、人生において何らかの確実性を求めようとしています。それは、安全な避難所を持つことかもしれませんし、明日はどうなるかを知ることかもしれません。確実さを手に入れるために、しばしば神や宗教的なことを利用することがあります。そして、私たちはそれを「信仰」と呼んでいるときがあります。

けれども、信仰とは、確実なことではなく、不確かなことです。見出すことではなく、見つけるための過程です。よく見つめることであって、定義することではないのです。信仰とは「挑戦」です!そして、常に新しいものなのです!神は常に新しい方なのですから!そして、信仰は、いつも「今」です!いつも「創造的」です!信仰は、あなたたちを確実性の上にあぐらかかせるものでは決してないのです。

イエズス・キリストを殺害したのは誰でしたか?誰が私たちの神を十字架につけましたか?不信仰な者たちでしたか?いいえ、彼を殺したのは、信心深い人たちなのですよ、みなさん!律法学者、ファリサイ派、そしてサドカイ派。彼らは、メシアがダビデの家系から生まれることを知っていました。彼らは、聖書についてあらゆる知識を持っていました。そして、メシアはやって来ました。それなのに、なぜ彼らはイエズスを認めることができなかったのでしょう?

なぜなら、イエズスは彼らが思い描いていた神のイメージにマッチしなかったからです。彼らは、神とはこういう方だという信念は持っていましたが、信仰は持っていなかったのです。メシアが来られたとき、彼は食器を洗わないし、姦通者や徴税人にまで接し、彼らがするようには安息日を尊重されませんでした。その姿に彼らはショックを受けました。「いったいこの男は何を望んでいるのだ?」と。

イエズスは、律法学者やファリサイ派、サドカイ派の人たちに、生き方や考え方を変えるよう求められましたが、彼らは変わることを望みませんでした。だから、「一人の人間が死ぬ方が、国全体が苦しむよりましだ。」と彼らは言ったのです。「彼を殺してしまおう。この預言者は、私たちが生き方を変えるように強いるのだから。」と。もし彼らが信仰を持っていたのなら、神の独創性に気付くことができたことでしょう。しかし、彼らは自分たちの勝手な思い込みに縛られていたため、メシアを殺してしまったのです。

物事を確信することは、確実性を私たちに与えてくれますが、信仰は不確実さの連続なのです。最もすばらしい例は、聖母マリアです。彼女に大天使ガブリエルが現れ、「あなたは、神の御子を身ごもるでしょう。」と告げます。マリアはどう答えましたか?「けれど、どのようにしてでしょう?私は男の人を知りませんのに。」この答えから、マリアは子をもうけるには、夫が必要だということを知っていることが分かります。すると天使は言います。「いと高き方の力があなたを覆います。」と。

しかし、マリアは天使の語っていることの意味を、すべて理解していたのでしょうか?彼女の人生に対して、どんな確実性があったというのでしょうか?マリアは、ただこう答えます。「お言葉の通りになりますように。」と 。ごらんなさい、これこそが信仰です!

分かりますか?この「お言葉の通りになりますように。」という言葉で、マリアは自分で自分の死刑宣告にサインしているようなものなのですよ。当時、夫がいないのに妊娠している女性は、見せしめに町の広場で石打ちの刑にされたのですから。ここに生きた信仰があります!

その後、エジプトへの逃避行があったり、いなくなった少年イエズスを神殿に探したりと、いろんな出来事が次々と彼女を襲います。最後には、十字架の下に立ち、御子が死んでいくのを見守らなくてはいけなかったのです。イエズスのすべてが消え去り、すべてが今、十字架上で死につつあるのです。どれほど力強い信仰が必要なことか!

信仰とは、神からの超自然的な贈り物です。もし、信仰の贈り物を切に祈り求めるなら、聖霊の贈り物を祈り求めるなら、神は信仰を与えてくださいます。しかし、信仰を持つことを切望せず、また、祈り求めないのなら、信仰をいただくことはできません。

今晩、私たちは病人のために祈ります。みなさんの中には、ガンや心臓病、麻痺といった、重い病気に冒されている方々もいるでしょう。エイズに苦しむ患者さんもいます。統合失調症やうつ病、過食症や中毒症といった精神的な病の中にいる方々もいます。しかし、私たちは、熱心に祈ります。

あなたの信仰があなたを救うのです!あなたの信仰が!これは、私が作り上げた話ではありません。聖書を見てください。どのようにしてイエズスが働かれたかを。彼のもとを訪れ、「イエズス、見えるようにしてください。」、「立てるようにしてください。」、「健康にしてください。」と願う人々に、主は信仰を持つようにとハッキリ言われます。「私がそれをできると信じるか?」と。彼らに信じることを要求されるのです。イエズスという存在と彼の力を信じることで、主は奇跡を起こし癒すことができるのです。一方、彼の生まれ故郷であるナザレでは、村人たちの不信仰のため、奇跡をおこなうことができなかったとも書かれています 。そして、彼らの不信仰を驚かれたとも。

「信じるなら、すべてが可能だ。しかし、信じないなら、神である私でも、あなたたちに何もしてあげることができない。」とイエズスはおっしゃっているのです。そして、この事実を、主は掟に変えられました。

しかしながら、慈しみ深い神は、あなたが信じなくても、他の人があなたのために信じるならば、助けてくださいます。百人隊長が近づいてきてイエズスに言います。「主よ、私のしもべが死につつあります。」と。イエズスは答えます。「では、行って、癒してあげよう。」しかし、百人隊長は言います。「いえ、いえ、とんでもない!私が行けと言えば、部下は行きます。私が来いと言えば、部下は来ます。ですから、一言だけ。一言だけおっしゃってください。そうすれば、しもべは良くなるでしょう。私はあなたを我が家にお迎えするに値しない者です。」

死の淵にあるしもべは、百人隊長が何を願いに行っているかなど、まったく知らなかったことでしょう。その死につつあるしもべがではなく、百人隊長が信じたのです。イエズスはなんとおっしゃいましたか?「イスラエルのどこにもこのように偉大な信仰は見たことはない。」と。

ミサにおいて、私たちは聖体を拝領する前に、百人隊長の言葉を口にします。「私はあなたをお受けするにふさわしい者ではありません。一言だけおっしゃってください。そうすれば、私の魂は癒されるでしょう。 (訳注: 日本の教会では、「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠の命の糧、あなたをおいてどこへ行きましょう。」と唱えます。 )」と。信仰をもってこの言葉を言うのなら、この信仰を持ってミサにあずかるなら、そのミサだけですべての人は永遠に癒されるでしょう。私たちは一体いくつのミサにあずかってきましたか?何千回ミサにあずかってきましたか?しかし、私たちに信仰がないのであれば、ミサは私たちの内に何を残してくれるでしょうか?

娘の回復のために祈ったあの母親を見てください。彼女はユダヤ人ではありませんでした。彼女は言いました。「先生、私の娘は病に伏しています。」と。ところが、イエズスの言葉は挑発的でした。いえ、イエズスは彼女の、より大きな信仰のために挑戦したと言うべきでしょう。イエズスは言いました。「私はイスラエルの家のためだけに来たのだ。あなたはイスラエル人ではない。犬に食べ物を与えるのは良いことではない。」と。彼はその母親を犬と呼んでいるのです!!しかし、親が子供たちのために祈るとき、彼らは信じ、必要としているものを叫び求めます。親たちが信じて祈るからこそ子供たちが癒されるという素晴らしい場面を、私はこれまでたくさん目撃してきました。さて、この母親は何と言ったでしょうか?「ですが、犬たちも主人の食卓からのおこぼれをいただきます。」これを聞いてイエズスは何と言いましたか?「あぁ、婦人よ!家にお帰りなさい。娘は癒された。あなたの信仰は偉大だ。」

イエズスが言うように、私たちにはからし種ほどの信仰さえもあるでしょうか?今日、ここには2〜3千人ばかりの人が集まっていますが、皆さんは信じることができますか?このミサが癒しと解放をもたらす祈りになるということを信じることができますか?私たちの必要としているものすべてを神が与えてくださり、彼があなたの心、体、人生をしっかりと掴んでくださることを信じることができますか?癒しや助けを必要としている人々のため、みなさんは信じて熱心に祈りを捧げることができますか?今晩、みなさんは信じることができますか?聖霊が来てくださいますように。天からの恵みが降り注ぎますように。

現代の社会に目を向けてみてください。様々な研究所や薬、科学があります。しかし、人々は、神が慈しみ深く、そして、惜しみなく与えてくださるものと、これらのものを置き違えてしまっています。旧約の時代、人々はどのように生きていたでしょうか?何が起るにしても、常に神ありきでした。雨が降るなら、雨を降らせておられるのは神でした。干ばつが起るなら、干ばつが起ることを許されるのも神でした。戦争に勝つなら、戦に勝たれるのは神でした。戦争に負けるなら、兵士の心を弱めて負けるようにされるのも神でした。何が起きるにしても、神が第一の理由でした。人々は神の臨在を強く感じていたのです。

今日、たとえば頭痛がするとき、私たちはアスピリンを飲みます。しかし、頭痛が治るように跪いて祈るという考えを誰も持たないのです。祈る代わりに薬を飲み、気分が悪いときには病院に行きます。たしかに社会は発展し、薬や科学やありとあらゆるものがあります。それは事実です。けれども、神も癒すことができるのです!アスピリンがあなたを癒すのではありません。アスピリンを通して神が癒してくださっているのです。神が私たちに動機を与えてくださるのです。神が医者を通して癒してくださるのです。神が薬を通して助けてくださるのです。

合理主義が教会や人々の間に入り込んでしまいました。「奇跡はもはや重要なものではない。このこともあのことも心理学的に説明できるのだから。」と。しかし、奇跡とは何でしょうか?奇跡とは、自然の法則を破るような出来事のことではありません。違います!科学的にいつの日か説明されるようになって、もはや奇跡じゃなくなるようなことのことではありません。たとえば、日食は中世においては奇跡と見なされていました。今日では単なる自然界の現象です。その時には説明がつかない自然現象は奇跡ではありません。違います。

奇跡とは、個々人の人生における深い体験を通して、神のなさることに気付くことです。言い換えれば、神が直接的に私たちの人生をとらえられるということです。

ある人にとってそれは、夕方のミサや祈りであるかもしれません。ある人にとっては、夕暮れの美しい景色だったり、子供の誕生だったりするかもしれません。あるいは、ある人にとっては、愛する人の死や家族を襲う不幸であるかもしれません。これらのことが人々を神に近づけるのです。そう!それこそが人生における真の奇跡です。

もし神なしに奇跡が起きるのだとするならば、私たちの人生に神は何のかかわりもないということを意味します。ですが、私は神に信頼をおいていますし、キリストを信じています。だからこそ、人生の旅路を共に歩んでくださるよう、私は神を探し求めているのです。たとえば、苦難の中にあるときは、神に泣き叫びます。物事がうまくいっているときには、神とともに笑います。幸せなときには、神はわたしのすぐそばにいてくださいます。神を褒め称えたいときには、神に賛美を捧げます。神に私と共に歩んでいただきたいのです。人生において彼を感じていたいのです。それがインマヌエル、つまり私たちと共におられる神なのです。

信仰について語るとき、同時に、信じるだけでは「限度がある」ということをお話しすることは大切なことでしょう。

みなさんは、就寝時、明日という日が来ることを信じて床に就くでしょう。明日が来るかどうか恐怖にあふれていては、眠ることはできないでしょう。車を運転してどこかへでかけるときも、みなさんは何かを信じているからそうできるわけです。それは、自分の運転能力に対する自覚だったり、道路の状態が安全だと知っているからだったり、車の性能に対する信頼感だったり。みなさんは何かを信じることができるから、行動することができるのです。

ですから、「自分には信じるものがない」と言える人は、一人として存在しません。何かを信じることのない人生は不可能です。なぜ私がこのことを語っているのかを説明しましょう。

最も力強い信仰は、イエズス・キリストのペルソナに対する信仰です。しかし、信じるだけでは足りません。使徒たちは、復活したイエズスを目の当たりにしました。聖書には、イエズスが彼らに40日間現れたと書かれています。40日間です。では、なぜ弟子たちはイエズスを信じていたのに、まだ恐れの中にいたのでしょうか?彼らは実際には信じていなかったのでしょうか?

そんなことはありません。彼らは信じていました。疑い深いトマスも、主の御傷に指を入れて、最終的には信じる者となりました。使徒たちも聖母も、主の復活の証人となり、すぐに信じました。けれど、彼らはなぜすぐさま行動し始めなかったのでしょうか?なぜファリサイ派やサドカイ派、律法学者たちから逃げ、最後の晩餐の高間に隠れ続けたのでしょうか?彼らは信じる者たちであったのに、なぜ彼らの信仰は神のために働く力をもたらさなかったのでしょうか?

信仰を持っていても、もうひとつの存在が必要だからです。信仰は、聖霊によって実を結ばなくてはならないのです。彼らはイエズスが語ったように、御父の約束を待っていたのでした。「真理の霊であり、弁護者である聖霊が来て、あなたたちにすべての真理を教えるだろう。私が御父のもとに行くことは、あなたたちにとって役となる。なぜなら、私が去らなければ、聖霊を送ることができないからだ。」

彼らは50日間待たなくてはならないことは知りませんでした。ですが、彼らと同じことを私たちも行うように招かれているのです。まず、聖霊に祈り、力強い信仰を祈り求めること!次に、神がその贈り物を与えてくださるまで、忍耐強く待つこと。そして、聖霊による力づけ。みなさんは信じることはできても、みなさんの心に聖霊が火を灯してくださらなければ、まだ神の御名において働く準備はできていないのです。ですから、待つことは良いことなのです。聖霊を受けたという確信なしに行動し始めても、失敗するだけでしょう。神ではなく自分を讃えているからです。神の御業ではなく、人の行いをしているだけだからです。だから、多くの司牧プログラムや素晴らしいアイデアが成功に結びつかないのです。そこに聖霊は存在せず、命のない言葉だけが紙の上にあるだけですから。

私たちは、要求の多い時代に生きています。みなさんはそれぞれ仕事を持っていますし、日常の中で福音を生きることは簡単ではありません。けれど、福音を生きることが唯一の道なのです。どれだけ困難であったとしても、福音を生きることが唯一の救いなのです。熱心に、毎日、途絶えることなく、力を尽くして祈ってください。神があなたに力を与えてくださるよう祈ってください。信仰、忍耐、祈りの恵み、そして聖霊の賜物を主が与えてくださるよう、祈ってください。霊的に必要なものを与えてくださるよう、祈ってください。祈ってください!みなさんは神なしに生きることはできないのです。秘跡を生き、聖書を読み、ミサにあずかって、自分自身を聖霊の力で養ってください。すべてのことを、聖なるものへの畏敬と信仰を持って行ってください。すべてを神に感謝してください。

感謝について語って終わりにしましょう。みなさんは、祈り求めていることに対して、いつ神に感謝し始めますか?たとえば、白血病に苦しむ我が子の回復のために祈っているとします。あなたは、祈り、祈り、切実に祈っています。祈り求めていることにして、いつ神に感謝し始めますか?

想像してみてください。とある裕福な人が、ここにいるひとりひとりに百万ユーロの小切手をくれています。あなたは、まず銀行に走って行って換金し、紙幣を数えてもらい、戻って来てからその人にお礼を言いますか?それとも、もらってすぐに「ありがとう」と言いますか?通常であれば、もらってすぐにお礼を言うでしょう。

では、私たちはいつ神に感謝するでしょうか?先ほど、奇跡について語ったときに、このことに少し触れました。神は、間違いなく祈りを聞いてくださると確信するとき、そして、祈りを聴きいれてくださったら、私たちが思い描いていたものよりさらに良いものを与えてくださるだろうことを理解するとき、神に感謝し始めてください。誰かのために祈りたいと思うとき、みなさんは、想像の中ですでに相手が健康に恵まれている姿を思い浮かべるでしょう。その思いを相手の人の中に満たしてください。神がその人の中にいてくださるように、熱心に信仰を持って祈ってください。そうすれば、神に感謝し始めることは、難しくないでしょう。神にはすべてが可能ですから。

愛する皆さん。私たちの人生と永遠性は、私たちの目の前にあります。そして、私たちには悪魔たちが持ちえなかった時間があるのです。ですから、皆さん、神への信仰と神にすべてをゆだねる道を歩んでください。聖母がみなさんのために取り成してくださいますように。アーメン。

スーダッツ神父 comments(5) -
Fr. Sudac / Confession and the Ten Commandments: 10

prayer



第10の掟は、「隣人の財産を欲してはならない。」です。

神はすでに第7の掟で、「盗んではならない。」とおっしゃっています。そして今また、「隣人の財産を欲してはならない。」とおっしゃいます。欲しがるなと。そのような考えをもつなと。なぜでしょう?なぜ神はこの二つの掟を定められたのでしょう?

それは、わたしたちが清らかな心を保つためです。でも、何のために?すべての悪はここから、つまり、わたしたちの心の中にわき起こる考えから始まるからです。ですから、わたしたちは自分たちの思いをしっかりと保っておかなくてはいけません。そうすることが、最良の償いとなります。

清らかな心。そして、しっかりと閉じた口。これが最良のアドバイスです。清らかな心と沈黙とがあれば、神の語られる言葉を静けさの中で聞くことができます。



これが神の十戒です。そして、イエズスは十戒を通して「愛の掟」を世に明かにされました。心をこめ、魂をこめ、思いをこめ、力の限り、全存在をかけて、神を愛すること。このことを可能にするには、わたしたちはまず告解をしなくてはなりません。これが条件です。まずこの務めを果たさないのなら、これ以上他にわたしは何のアドバイスもできません。

さて、思い出してください、ここまでにお話したことは、まだ霊的な生まれ変わりのための導入部分です。みなさんが悔い改めるための最初のステップです。「赦しの秘跡」の手法的な部分についても触れておきましょう。

一点目。「赦しの秘跡」は、霊的な会話の場ではありません。ですから、司祭のもとにやってきて、しばらく霊的なおしゃべりをする場ではありません。あなたが犯した罪について「これとこれとこれ」といった具合に伝えなくてはいけません。それから司祭はあなたがたにアドバイスを与えます。ためになるアドバイスを適宜伝えます。そして、果たすべき償いを与え、みなさんは自分の犯したことを悔やみ反省します。それで終わりです。これが「赦しの秘跡」というものであって、「霊的会話」ではないということを覚えておいてください。

二点目。どの司祭に告解しても、秘跡の効力は同じです。「こちらの神父様の方がもっと心理学的に分ってくださる。」云々を言う人がいますが、司祭は皆さんのため、そして神のためにここに存在しているのです。司祭が重要なのではなく、みなさん自身が、みなさん自身が心を開くことが、そして、みなさんの神への信頼が重要なのです。

三点目。このことが最も大切なことでしょう。告解においては正直であってください。例えば、クリスマスの時期、まわりの人々が告解しているからといって、自分も告解しなくてはとやってくる人たちがいます。しかし、この人たちは、自分たちが犯した罪のことではなく、自分たちが犯してもいない罪のことを話すのです。自分の罪深さを認めることを恥ずかしいと思っているのです。

もし、自分は罪深くないと思っているのであれば、間違いなくその人はとても罪深い人です。神に近づけば近づくほど、自分の罪深さをより深く感じ、神性に近づけば近づくほど、自分は罪人であるということをより深く感じるものです。

例を挙げましょう。ここにホコリで汚れたガラスがあります。そのホコリを払ってきれいにします。「よし、これできれいだ。」と満足します。しかし、そのホコリを電球に近づけてみてください。まだまだ残っているホコリを発見するでしょう。太陽の光に向けてみてください。いかに汚れているかが分るでしょう。同様に、神に近づけば近づくほど、自分の魂の中の汚れにもっと気付くのです。

自分たちはそこまで罪深くないと思っている人たちが告解に来るとき、わたしはしばしばこう言いたくなります。「なぜみなさんは来たのですか?」と。「わたしには罪がありませんとわざわざ言いに来たのですか?」と。「お帰りください。告解する必要はありません。」と。

ですから、告解においては、自分自身に正直であってください。また、罪を過小評価したり、逆に、必要以上に罪深く思ったりしないでください。ときどき、行き過ぎなくらいに自分の罪を断罪してしまっている人たちがいます。正直に、客観的に、明確に、「わたしは○○と○○と○○の罪を犯しました。ごめんなさい。」と司祭に告げてください。

悔い改めは非常に大切です。― 「ごめんなさい。」 ― もちろんですとも。「これらの兄弟の中で一番小さなものにしたことは、わたしにしたことなのです。」と主は言われているのですから。みなさんは、イエズスの御手に釘を打ち込んだのですよ。ゴシップやら憎しみやら、人々に対して行ったあらゆる悪は、神に対しておこなったことと同じなのです。

今夜のプログラムはここまでです。正直に、信頼の心をもって、聖霊のうちに告白してください。涙が出てくるときには泣いてください。大きな声で泣いてください。悲しみがみなさんの涙とともに流れさるままに。

みなさんは今日、力強い信仰の礎をいただきました。また明日からも続けましょう。アーメン。(終)



スーダッツ神父 comments(10) -
Fr. Sudac / Confession and the Ten Commandments: 9

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第9の掟は、「隣人の妻を欲してはならない。」です。

欲情の目で誰かを見ようとしないでください。他の男性や女性に欲情を抱くようなことを、自分に許さないでください。言うまでもなく、彼や彼女との行為に及ぶなど、もっての他です。

いったいどれほどの結婚が、離婚という形で終わってしまっているでしょうか?離婚の数があまりにも多過ぎます。今日、妾(めかけ)や愛人を持つことは、モダンでファッショナブルでカッコいいこととされています。家には料理や家事をこなしてくれる妻がいて、外には愛人を囲っています。そして、彼らは言うのです。「自分が愛人を持つように、妻も誰か愛人を作ればいいじゃないか。それが最近の流行りさ。」と・・・。




to be continued



 

スーダッツ神父 comments(0) -
Fr. Sudac / Confession and the Ten Commandments: 8

joseph



第8の掟は、「隣人に関して偽証してはならない。」です。

わたしたちは皆、ここでつまずきます。全員です!

自分のことをジョークにしたり笑いの対象にすることは、人生を上手に生きて行く中で、時に必要な場合もあるかもしれません。

しかし、自分以外の誰かを傷つけるようなやり方でウソをついているのであれば、その人に災いがありますように!その人は、すぐに己を改めるべきです。陰口をたたいたり中傷したりして、誰かの不利益となるウソをつくことは、相手の未来にまで悪影響をもたらします。おそらく、みなさんもそのような出来事を目にしたことがあるでしょう。

特に小さな田舎社会では、そういったことがよく起きています。「退屈だから、気晴らしに誰かの悪口でも楽しみましょうよ。」 何かの噂を聞きつけると、そこに少し作り話を加えたりするのですが、悪口を言われている当の本人の耳元に届くころには、とてつもなく大きなホラ話に成り果てているのです。そして哀れな被害者は、作り上げられたウソを背負って生きていかねばならなくなるのです。かといって、そういう悪事を行っている人たちがいるのだという忠告を、誰も被害を受けている人にしてあげようともしないのです。なぜでしょうか?

忠告することで、その被害者が立腹し、すべての責任をあなたのせいにするかもしれないと恐れているからです。

人々はウソをつき、そのウソをまき散らし、被害者がその作られたウソの世界の中で生きて行かざるを得ないような状態に追いやっています。それなのに、その人を助けようとしないのですか?

もしかすると、わたしたちは、その被害者の人と一緒に祈りにあずかってるかもしれません。けれど、彼に近づいて、「こんな悪い噂が広まっているんだよ・・・」と正直に教えてあげようともしません。なぜなら、自分の評判に傷がつかないよう、自分を守ることしか考えていないからです。自分自身と自分自身の生活のことしか考えていないからです。

ですから、わたしたちは今日、誰かの奴隷になりさがってしまい、また、社会を取り巻く環境の奴隷になりさがってしまっているのです。誰ひとりとして、もはや真実を語らないのです。誰も!

しかし、それはキリスト教の教える生き方ではありません。聖書が何と言っているか、挙げてみましょう。「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼と二人だけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。もし聞いてくれないなら、他に一人二人を、一緒に連れて行きなさい。それは、二人または三人の証人の口によって、すべての事柄が確かめられるためである。もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。」

お子さんたちが薬物中毒になってしまったご夫婦の話です。自分の子どもたちがドラッグを使用しているということを一番最後に知ったのが、このご夫妻でした。近所の人たち、友人たち、親戚や兄弟、全員、この子たちがドラッグを使っていることを知っていたのに、みんな黙っていたのです。ついには薬物中毒となってしまいましたが、それでもなお、誰もこのご夫妻に教えてあげなかったのです。なぜなら、自分たちの評判の方が、この子どもたちの評判より大切だからです。

ウソはいたるところにあふれています。真実を語る新聞なぞ、もはや存在しないも等しいです。人類はウソで凝り固まっています。そして、「ウソの父」が誰なのか、誰しもが知っています。このことについては、明日お話します。どうか、よく耳を傾けて聞いてください。




to be continued



 

スーダッツ神父 comments(0) -
Fr. Sudac / Confession and the Ten Commandments: 7

pharesees



第7の掟は、「盗んではならない。」です。

国の盗人たち。盗まないでください!わたしたちの信仰は古めかしいものだと思い込ませること。信仰を盗まないでください!盗まないで!

正直であること。ここにみなさんの霊的な生まれ変わりがあります。家族においても仕事においても、正直であることを決心してください。一本のピンであっても盗まないように。

正直に生きるということは恥ずかしいことでしょうか?今日、正直であることは恥ずかしいことだとされてしまいます。わたしたちはあらゆる物事や価値観を逆さまにしてしまっています。あらゆることを歪曲してしまっています。間違った生き方をしているのです。

外面は完璧で、家をきれいに飾ることもできるし、化粧をして美しく着飾ることもできますが、中身は腐った墓の中のようになってしまっています。盗むなというメッセージをみなさんのポケットの中に入れておいてください。盗むようなことをするくらいなら、自分の手を切り落としてしまおうと自分に言い聞かせてください。

いつも騙しあい、誰もお互いを信じられないのなら、どのようにして新しい世紀を作り上げていくことができるでしょうか?まずはみなさんの自分の家庭の中から、正直であることを実践してください。

とあるご夫婦から聞いたことがあります。自分たちの子どもたちが盗みを働くかどうか試すため、わざと見えるところにお金をおいていたのだそうです。彼らは、一体、子どもたちに何をさせようとしているのでしょう!?お金を盗むようになってしまうのなら、ドラッグにも間違いなくてを出すようになるでしょう。子どもたちは働いていないからです。

わたしたちはあらゆる場所で盗みをはたらいています。物質的な盗みはもちろん、霊的な盗みもです。もし誰かの努力を横取りするのなら、わたしたちはその人の良い評判を盗んでしまっています。中には、あるポジションを得るために、自分の母親を売ってしまうような人さえもいます。人々は、自分自身が大丈夫なら、盗み、奪い取り、殺してしまえと思っているのです。



to be continued



スーダッツ神父 comments(0) -
Fr. Sudac / Confession and the Ten Commandments: 6
chastity




第6の掟は、「姦淫してはならない。」です。

わたし自身が司祭であるため、人々はこのことについて話すのを恥ずかしく思っていたり、司祭にこのような話題を話せるわけがないと思ってしまっています。

また、若者たちは、このことについて告白することもありません。なぜでしょう?それは、彼らがそういうことが罪であるということを認識していないからです。

結婚前の貞潔を守ることはもちろん、結婚したからといって、何でも許されているわけではないのですよ。みなさんは、清い性生活に招かれているのです。結婚前の性交渉は罪です!誰もそのことについてみなさんに話さなかったのですか?知らなかったのですか?婚前交渉は罪です!自慰は罪です!自分の精子を無駄に捨てることは罪です!

告解では、ある種の罪だけを告白すれば良いのではありません。自分の心の中をよく観察してみてください。なぜこれらの罪を犯すのでしょう?それは、心の中が空っぽだからです。大きな空虚感が心の中にあります。みなさんの心の中のどこに神がおられますか?愛も、敬う気持ちも、本当の人間関係も、真の友情もありません。どれほどの愛がわたしたちの中に欠けてしまっていることか。真に偽りのない気持ちこそが、人への愛と神への愛を育ててくれます。

もうみなさんは何が罪なのかが分りました。何を告白すべきなのか分りました。

今日の社会は、みなさんのことをとても時代遅れだと言うことでしょう。結婚前に性交渉を持たないなんて、遅れているというでしょう。ヌードシーンのない映画なぞありません。裸の写真を載せていない雑誌や新聞もありません。ポルノがいたるところにあります。ですから、こういうものが「普通」のこと、完全に当たり前のこととなってしまっているのです。




to be continued



 
スーダッツ神父 comments(0) -
Fr. Sudac / Confession and the Ten Commandments: 5
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第5の掟は、「殺してはならない。」です。

人を殺すことなんて昔の時代のことであったり、殺人鬼にしか関係ないことであって、この新千年紀にいる自分たちとは無縁なことと、みなさんは思っていることでしょう。

ですが、今の時代ほど、人の命が危機にさらされている時代はありません。今でさえそうであるならば、これからの時代はどうなってしまうことでしょう?神のいつくしみを祈るしかありません。

20世紀、世界はたった二つの世界大戦しか経験しなかったじゃないかと思うでしょうが、事実は違います。まさにこの瞬間、今、わたしたちがここに集っている間にも、何千もの人々が世界中で殺されています。ナイフや銃、爆弾によってだけではなく、みなさんの子宮の中で。

堕胎を決めた人(女性だけでなくパートナーである男性も)は、ひとりの命が世に生まれることを阻害しただけでなく、その子から生まれてくるであろう多くの子孫たちの誕生をも阻害したのです。神のご計画に「ストップ!」と言ったわけです!そして、もし、一度ならず二度も三度も堕胎をしたのであれば、いったい何千人もの人の命に終止符を打ってしまったのでしょう?

殺さないでください!しかもわたしたちは、自ら進んで、時には憎しみをこめて殺してしまっているのです・・・。

また、カトリック信徒の間で憎しみあうこと以上にひどいことはありません。冷笑を浮かべながら憎しみあうこと以上にひどいことはありません。これは、兄弟姉妹の間での殺人です。悪が人々の間、国と国の間に広がっています。みなさんは祝福を妨げ、殺人を犯しているのです。しかも、意識的に殺しているのです。ドラッグやアルコールについても同じことが言えます。

殺さないでください、クリスチャンであるみなさん、殺さないで!




to be continued




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Fr. Sudac / Confession and the Ten Commandments: 4
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第4の掟は、「あなたの父母を敬え。」です。

わたしたちが生きているこの正気を失っている時代、気付くことがあります。赤ちゃんが家の中で生まれることはなく、亡くなる人も家の中で死を迎えることはありません。今日、生の誕生の神秘も死の神秘も、家族から切り離されてしまっています。

お年寄りは、病院や老人ホームなどで亡くなっています。家で臨終を迎えることが普通のことではなくなってしまっているのです。赤ちゃんも同じことです。家で生まれることは普通のことではなくなってしまっています。

わたしは、家の中でお産していた時代に戻るべきだと言っているのではありません。もちろん、そんなことではありません。他の理由でこう言っているのです。

子どもたちが、自分のおじいさんやおばあさんが、どのように年を取っていくのかを見ないのなら、また、親であるみなさんが自分の両親をどのように敬っているのかを見ないのなら(たとえ老いてぼけていたとしても彼らはあなたたちの両親です!)、彼らが年配者を尊敬することはなく、同じようにあなたたちにも不敬の念を持って接するようになるからです。しかも、もっとひどく。ずっとひどく。

みなさんが自分の両親を敬わないのであれば、みなさんは人として責められるだけでなく、神から与えられた「命の掟」の最も根幹となるモラルを破壊してしまっているのです。そう、みなさんは、自分自身を、命を与えてくれたご両親を、そして命と永遠の魂を与えてくれた神を敬っていないのです。「命の掟」を破っているのです。 このことをみなさんの心が理解しないのなら、与えられるべき祝福を期待しないでください。



to be continued



 



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Fr. Sudac / Confession and the Ten Commandments: 3
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第3の掟は、「主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。」です。


みなさんは主日の素晴らしさを理解していますか?


日曜日は、司祭のための日ではありませんよ。教会を信者でいっぱいにするための日ではないのです。日曜日はあなた方の家族のための日だということを分っていますか?


みなさんは、正気を失わせるようなこの世の中で、日々忙しく仕事をしたり学校に行ったりしています。ですから、日曜日は、両親や子どもたちが共に一つのテーブルに着ける一日なのです。家族と一緒に語らうことのできる祝福された時間なのです。ミサの後に家族との時間を大切にできる貴重な時間なのです。息子さんに学校はどうだったかと尋ねたり、共に語らい合ったり、家族の中でコミュニケーションを取るための時間なのです。そうすることで、わたしたちは、人間としての本来あるべき姿で振る舞うことができるようになります。


日曜日はあなた方のための日、あなた方のための特別な時間、あなた方の平安のため、そしてあなた方の家族のための一日なのです。祝福を受け、幸せに暮らせるための日です。さて、みなさんが家族と一緒に日曜日を過ごしたのはいつでしょうか?


もう一つ、わたしが気になっていることがあります。ミサに参列している信者さんを見ていると、家族がばらばら・・・。お母さんはあちら、お子さんはここ、息子さんは二階席に。ミサの後は、一緒に家に帰ることもなく、一緒に昼食を食べることもありません。旦那さんは自分の作業場に、奥さんは友人たちとお茶へ、子どもたちはひとりぼっち・・・。ダメです!彼らにとっての主日となっていません。


キリスト教や信仰は、みなさんの生活の中で実践されるものでなくてはなりません。就寝するとき、食卓についているとき、家族と一緒のとき、会社で働いているとき、これらすべてがキリスト教なのです。キリスト教とは具体的な生き方のことです。このセミナーに参加し、霊的に生まれ変わろうとすることだけでは十分ではありません。


どうか、わたしの話していることを理解してください。みなさんの家族、みなさんの父としてのあり方や母としてのあり方、みなさん自身、そしてみなさんの平安のためにこれらのことを話しているのです。


この第3の掟を何度も破ってしまったことでしょう。わたし自身も含め、全員何度も。なぜなら、神がわたしたちに何を望まれているかを理解していなかったからです。そして、それがいかにわたしたちにとって大切なことであったかということを理解していなかったからです。




to be continued







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Fr. Sudac / Confession and the Ten Commandments: 2
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第2の掟です。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」


ご存知のとおり、わたしたちの国は下品な言葉にあふれています。人々は口汚くののしったり、けなしたり・・・。人々がいかに侮辱したりあざけったりするかは、信じられないほどです。神の御母やイエズス、 御降誕、イエズスの御血、聖人たち、秘跡、神、そして自分たちの命までをも冒涜する者までいます。そう、自分たちをも呪う人たちがいるのです。ののしるは、けなすは、本当に胸が悪くなります。しかし、教皇様がいらっしゃると、人々は簱を振ってにこやかに迎えるのです。


自分たちの国の言葉をいかに悪用していることか。恥です。しかし、日曜日になると彼らはミサにやってきます。「もちろんですとも。わたしたちはクリスチャンですから。わたしたちはローマカトリックですから。十戒は“あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。”と言ってはいても、下品な言葉を使ってはいけないとは言ってません。神への祈りの中などでそういう言葉を使わなければ問題ないですよ。」


自問してみてください。

これまで何度主の名をみだりに唱えたか?

そして、何度聖なる御名や聖なる単語を使って汚い言葉を吐いたか?


みなさんが極端にお利口さんである必要もなく、お利口さんぶる必要もありません。ですが、このことは、霊的訓練のまだ初歩の初歩なのですよ。この一番最初の部分をわたしたちが全うしないなら、他のことについて教えを説いてもまったく無駄です。まだ3割の人たちが神を冒涜し続けているのなら、どうやってこの共同体が霊的に成長することができるでしょうか?



【 訳者解説 】


実際に聖なるものを冒涜する人たちへの戒めも含まれていますが、ここで語られている内容は、日本人にはあまりなじみのない欧米言語独特のスラングや慣用句のことであると思われます。


欧米の言語のスラングや慣用句では、驚きや怒りを表す表現の中に、神の御名や聖なるものを意味する単語が使われていることがよくあります。例えば、英語では、みなさんもご存知の以下のような表現ありますね。


- "Oh, my God!"

- "Jesus!"


これらは、決してきれいな言葉として使われるのではなく、「くそ!」とか「ちきしょう!」とかいう意味で使われることも非常に多いのです。


つまり、誰かをののしったりバカにするときに、聖なる御名が使われているわけです。また、そういう用途でなく、単に驚いたときなどに使っているとしても、神への祈りでもないのに、みだりに神の名を唱えているのです。人々は別に神を呪うつもりで言っているわけでもなく、慣用句のひとつで発しているだけなので大丈夫だと思っている場合が多いのですが、そのことを神父様は戒めています。




to be continued





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