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今日は、マグダラのマリアの祝日。「ダ・ヴィンチコード」など、「実は、マグダラのマリアがイエズスの妻だということが分かった!」という話が時々出ますが、あれはすべてデタラメです。
根拠としてよく使われるのが「トマの福音書」や「フィリポの福音書」等。けれど、これらはグノーシス派という異端の宗派の書物であり、しかも4つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)のはるか後に書かれたもの。正当な4つの福音書は、50-100ADの間に書かれたと聖書学者たちはほぼ一致していますが、グノーシス派の福音書は、早くても2世紀の終わり、そのほとんどが3〜5世紀の間に作成されたものです。
中でも、彼女が妻だったという根拠として出されるのが、「フィリポの福音書」での記載なのですが、実は、はっきりと「妻だ」とは明記されていなんです。ほとんどの人が原典を知らないのを良いことに、主張者たちが、都合よく解釈をしているだけ。
マグダラのマリアについては「主の同伴者」と書かれていて、原文では「コイノーノス」となっています。このギリシャ語の持つ意味は、「誰かを、あるいは、何かを分ちあう親しい仲」という意味で、ビジネス的な仲から親しい仲にいたるまで幅広く用いられる語です。
聖書の中でもこの語は使われていますが、まったく性的な関係での意味では使われていません(マタイ23:30、ルカ5:10等)。特にグノーシス派は肉体というものを卑下しますから、この箇所だけ「肉体的な連れあい」として読むのは不自然で、「霊的な連れあい」と読むべきだと思います。
また、「フィリポの福音書」にはイエズスがマグダラのマリアにキスする箇所が出てきます。「これこそ妻であることの証拠!」となるかもしれません。けれど、グノーシス関連の別の書物で「ヤコブの黙示録」というものがあります。この中でイエズスはヤコブの口に「愛するものよ」と言ってキスをします。
この場面、どのような場面かというと、復活したイエズスが「隠された知識」をヤコブに伝える場面です。「キス」というものはグノーシス派にとっては肉体的な意味のものではなく、「象徴」です。何を象徴しているのかというと、キスを受ける者が特権を持つポジションにいるということを示し、この「キス」によって「隠された知識」が伝達されるということを表します。グノーシス派はマグダラのマリアを使徒以上に最も深淵な知識を与えられたものと見なすのですから、マグダラのマリアへのキスも、夫婦といった肉体的な間柄ではなく、彼女が最高の使徒であることを象徴しているはず。
さらに言えば、先述したようにグノーシスは「肉体は忌むべきもの」とみなしています。天地創造は「真の神」によってではなく、より低級の「神」によって創造されたため、物質的存在は「悪」であり、人間はこの状態から「隠された知識」をもって抜け出さなくてはならないと教えます。人間の体を「悪」として卑下しますから、この点からも「グノーシスの福音」にあるイエズスとマグダラのマリアの関係を「肉体的なもの」と解釈するのは、グノーシスの思想と矛盾してしまいます。グノーシス思想の観点から読めば、イエズスとマグダラのマリアの関係は、マグダラのマリアに「隠された秘密」が伝えられたという霊的な関係としか読めないと思います。
sometimes, people say that mary magdalene was the spouse of JESUS (such as the case of "the da vinci code" etc), but their claims are hoax. they refer to the heretic books of gnosis, like "gospel of thomas" and "gospel of phillip" to support their story, however, we must know that the authorized gospels (matthew, mark, luke and john) were all written around 50-100A.D., but the gnostic gospels were consisted around 3-5 centuries, much later time of JESUS.
it has been said that the "gospel of phillip" clarifies that JESUS' wife was magdalene, but even the gnostic book does not clearly say so.
magdalene is described as "the companion of the LORD". the original greek terminology is "koinonos" which indicated various range of intimacy, from the intimate accompany to the business partner. the same word is used in the bible, too (mat 23:30, luke 5:10 etc.), but these do not show the sexual relationship. furthermore, gnosis disdains the physical body, the word in "gospel of phillip" should be read as the spiritual relationship.
in another part of the gnostic book, JESUS kissed mary magdalene and people say this is the sign of the wedded pairs. however, in other gnostic bible, "apocalypse of james", JESUS kissed james, too, when the resurrected CHIRST delivers the "hidden knowledge" to james. the kissing is very symbolic to the gnosis and it expresses the one who is kissed is in the special position and he/she receives the "hidden knowledge". the gnostic followers regard mary magdalen is superior to the apostles, so the kissing should be the sign that clarifies she is the ultimate apostle of JESUS, not the physical spouse of the LORD.
as mentioned earlier, the gnostic sect hates the body (and the physical substances) as "evil", for the world was created by the inferior god, not by the true GOD. they teach that we must get out of the physical world by the hidden knowledge. so, the claim that the JESUS and magdalene's relationship was physical contradicts the belief of the gnosis. from the gnostic viewpoint, their relationship can be only read as spiritual.
「新約」とは、聖書のことではなく、キリストのご聖体のことだということを、クリスチャンは忘れているのではないでしょうか?
一番最初の福音が書かれたのは、1世紀後半。それまで、キリスト者は、「聖書」を持っていませんでした。2世紀ごろから書物がまとめられはじめ、「新約聖書」と呼ばれるものが最終的にまとまったのは、4世紀。また、聖書自体が「新約」なのではなく、聖書は元来「新約の書、新約についての書(books of the new testament)」と呼ばれていました。
では、キリスト者たちは、まとまった聖書のない時代、何をしていたのでしょう?主の聖体が「新約」だからこそ、「聖書」という書物がなくとも、キリストによってもたらされた「新しい契約」を思い起こし、記念できたのです。そもそも、聖書自体が、聖体を祝う準備のためにまとめられたものです。主は、「私の語ったことを行え」とは言っても、「私の語ったことを書き記せ」とは一度も言われませんでした。
さらに、イエズスが聖書の中で「新約」、つまり、「新しい契約」とおっしゃっているのは、聖体の部分のみです。(「この杯はあなたたちのために流されるわたしの血による新しい契約である。」ルカ22:20)また、パウロも「「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。 飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。 (一コリ11:25)」と、イエズスが制定した新約である聖体について語っています。
新約は旧約の完成であり、旧約の過ぎ越しは、新約の過ぎ越しによって完成されます。過越祭の祝いには、伝統的儀式がありました。聖木曜日、使徒たちが過越祭を祝うために高間に集まっていたとき、イエズスは聖体を制定されました(ルカ22:19-20)。伝統の儀式に、イエズスが新しいものを付け加えたわけです。その時、弟子たちはイエズスが何をしているのか、何のことを言っているのか、まだ分からなかったでしょう。
十字架の刑は、エルサレムの城壁外で執行されました。当時のユダヤでは、生贄を捧げるのは城壁内の神殿の祭壇上ででした。だから、イエズスの十字架は、聖木曜日にイエズスが自身を捧げた聖体制定がなければ、ただのローマの刑罰を受けたにすぎない事になります。けれど、聖木曜日の聖体の制定があったからこそ、イエズスの犠牲は、究極の生贄となるわけです。旧約の時代、生贄にされた子羊の血が人々の贖罪のために捧げられ続けましたが、新約の時代、神の小羊であるイエズスの血が、人々の救いを完成させたわけです。
ですから、聖体中心でなければ、新約のクリスチャンとは言えないのです。
do we really know that the "new testament" is the eucharist, not the bible?
the first gospel was written in the late 1st century. until then, there had not been any written documents for the christians. people started gathering the books from the 2nd century, and what we call now "the new testament" bible was completed in the 4th century. the bible itself is not the new testament and it was initially called “books of the new testament”.
then, what were the christians doing without the bible? well, the eucharist itself is the new testament, so there was no need for them to depend on the written documents for remembering and celebrating the new testament. the bible itself was edited so that people of later time could prepare the eucharist accordingly. our LORD never commanded to write down anything, but to do what HE taught.
furthermore, JESUS only mentiones the “new testament” once. it is when he establishes the eucharist during the last supper (luke 22:20). also, st. paul clarifies that the new testament is the blood of CHRIST (1 cor.11:25).
the new testament completes the old, and the passover of the old testament is completed by the passover of the new testament. there was the special liturgy for celebrating the passover meal. on holy thursday, when JESUS and HIS apostles gathered at tabernacle to celebrate the passover meal together, our LORD set up the eucharist (luke 22:19-20). HE added something new to the old liturgy. the apostles might not know at that time what HE did and what HE meant with it.
the crucifixion was carried out outside the wall of jerusalem. in the jewish community, the sacrifice must be offered on the alter in the temple. so, if there were not the eucharistic event on holy thursday, the crucifixion was merely the roman execution. but, JESUS freely offered HIMSELF as the sacrifice of love through the eucharist, the crucifixion became the supreme sacrifice. the blood of lambs which had been offered for the atonement of mankind during the old testament time, the blood of CHRIST, the lamb of GOD, completed the salvation once and for all.
so, if we are not the eucharistic chrsitians, we are not the christians of the new testament!
昨日の主日の福音(ヨハネ6章51〜58節)は、聖体に関してほのめかす箇所でした。カトリックの教える聖体の神秘。それは、はたして正しいのでしょうか?
この後、「私の体を食べ、私の血を飲め。私の肉を食べ、私の血を飲む人は、永遠の命を得る。」というイエズスの言葉を聞いたユダヤ人たちは、彼を狂人と見なし、多くの弟子たちも、到底理解できないと主の元を去っていきました。聖書の中で、唯一、イエズスがあからさまに失敗した場面です。
なぜなら、当時のユダヤ人には、とても受け入れられる話ではなかったからです。人の体を食べることなどもっての他ですし、血は「命がやどるもの」。動物の血でも、口にすることを律法で固く禁じられていました。
しかし、イエズスは、去っていく弟子たちを止めませんでした。イエズスは多くのたとえ話をこれまでも話され、その意味するところを、少なくとも弟子たちには説き明かしてこられましたが、ここでは、「待て、待て。このことは、象徴的な意味での私の体について語っているのだ。」とはおっしゃいませんでした。
なぜでしょう?
「文字通り」だからです。
それは、原文のギリシャ語を見ても分かります。古代ギリシャ語には、「食べる」を意味する動詞がいくつかあります。一つは、「φαγω (ファゴー)」。もう一つは、「τρωγω (トローゴー)」。
「φαγω (ファゴー)」は一般的に「食べる」という意味ですが、「τρωγω (トローゴー)」は、より具体的で強烈、実際に食べている状況を表す「むしゃむしゃと食べる、噛み砕いて食べる」という意味です。ギリシャ語において「φαγω(ファゴー)」は隠喩的な意味や象徴的な意味にも使えますが、「τρωγω (トローゴー)」は使えません。
イエズスはヨハネ6章23〜51節の間で、まず「φαγω (ファゴー)」を使います。しかし、52節にあるように、それを聞いたユダヤ人たちは、「この人は、どうして自分の肉を食べさせることができようか?」と激しく論じあいます。そこで、イエズスは、彼の語っていることが象徴的な意味ではなく、本当に食べることだということを強調し伝えるため、ヨハネ6章54〜58節の間でトーンを上げ、「τρωγω (トローゴー)」を使います。
ちなみに、「τρωγω (トローゴー)」が聖書の中で出て来るのは、3箇所のみ。それは、このヨハネ6章54〜58節の間、マタイ24章38節、そしてヨハネ13章18節です。どの箇所でも、象徴的な意味での「食べる」ではなく、文字通り「食べる」状況でのみ使用されています。
また、「私の肉」というとき、「σωμα (ソーマ、体)」ではなく、より具体的な「σαρξ (サルクス、肉)」という言葉を用いています。福音書の中で「σαρξ (サルクス、肉)」が使われている箇所は、どれも、文字通りの「肉」という意味で使われています。(ヨハネ1:13-14; 3:6、 8:15、17:2、マタイ16:17、19:5、24:22、26:41、マルコ10:8、13:20、14:38、ルカ 3:6、24:39等)
つまり、聖書が伝えるのは、象徴的な意味のイエズスの体ではなく、実際にイエズスの体を食べよということなのです。それが、最後の晩餐の時、「とってこのパンを食べよ。これは私の体。この杯を飲め。これは私の血。(マタイ26章26〜29節等)」とイエズスが制定した聖体につながるわけです。
そして、聖書だけでなく、初期の教会の姿からも、聖体における現存が信じられていたことが分かります。
初代教会の教父の一人である聖イレネウスは、その著書の中で、「パンについては、それは大地から生まれたものだが、神を呼び求める祈りを受けると、もはやふつうのパンではない。この世と天国の二つの実存によって構成された聖体なのである。同じように私たちの体も、聖体をいただくと、もはや朽ちるべきものではなく、永遠の復活への希望を有すようになるのである。(『異端反駁』より)」と述べています。また、ローマから迫害を受けていた初期教会は、「キリスト者は人肉を食べ、血を飲んでいる。」と悪評を流されていたことからも、教会の初めから、聖体におけるイエズスの現存が信じられていたことがうかがい知れます。
パンは真のイエズスの体となり、ぶどう酒は真のイエズスの血となる。カトリックの信仰が教える聖体の神秘は、まさに聖書の教える通りなのです。
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