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Scott Hahn
Lamb of God


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最近、アメリカで有名な神学者、Scott Hahn(スコット・ハーン)氏の著作を読んでいます。

彼はもともとプロテスタント・長老派の熱心な牧師。カトリックは完全に間違った教えを信じていると確信していました。

ある時、堕胎問題に触れ、堕胎が主の掟に反していると感じ、そのことについて神学的なリサーチを奥さん(彼女も神学者)と開始。すると、現代にいたるまで堕胎を明確に禁じているのは、“誤った教会”であるはずのカトリックのみだということを発見し、困惑します。

それを機に、堕胎問題だけでなく、プロテスタントとカトリック双方の教義の研究に没頭。すると、プロテスタントとして信じていることが聖書と矛盾している点が多いこと、また、プロテスタントとして聖書を熱心に読んで来たはずなのに、見落としている点が多いことに気づきます。

■ 例1
プロテスタントの基本は「sola scriptura(ソラ・スクリプトゥーラ:聖書のみ。カトリックでは“聖書と使徒の伝承”の両方)」です。しかし、その聖書の中で、イエズスは「私の言うことを行いなさい。」とは言っても、一度も「私の言葉を書き残しなさい。」と言っていないのです。それどころか、パウロは、テサロニケ人への第二の手紙2章15節において、「・・・しっかりと立ち、わたしたちの説教や手紙を通して学んだ正統な教えを固く守りなさい。」と言っています。(この箇所は英語では"...stand firm and hold to the traditions which you were taught by us, either by word of mouth or by letter."となっていて、直訳すると、「・・・しっかりと立ち、言葉であれ手紙であれ、わたしたちによってあなたがに教えられた伝統を保ちなさい。」となります。)

■ 例2
もう一つのプロテスタントの重要な教義は、「sola fide(ソラ・フィデ:信仰のみ、カトリックでは“信仰と行い”の両方が必要)」ですが、こちらも聖書をよく読むと、パウロは一言も言っておらず、逆にヤコブの書簡では「たとえ、誰かが自分は信仰をもっていると言っても、行いを伴わないならば、なんの役に立つでしょう。そのような信仰は、その人を救うことができるでしょうか。」と「行い」の必要性を説いています。パウロもコリント人への第1の手紙のあの有名な愛の賛歌の箇所で、「たとえ、山を移すほどの完全な信仰があっても、愛がなければ、わたしは何ものでもない。」と言っています。愛には気持ちや思いだけでなく、行いが伴うのは当然のことです。

他にもいろいろありますが、ハーン氏はカトリックの教義が非常に聖書に基づいていて、研究すれば研究するほど反駁できないことを発見し、ますます困惑してします。

そして、ミサにあずかってみた時、彼は衝撃を受けます。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。」「神の子羊。」ヨハネの黙示録(4章etc)の中に出て来る天国における礼拝の場面そのものが、まさに地上において再現されているからです。このこと自身、カトリックであるボクたちも見落としているのではないでしょうか?

ミサがまさに祭壇上の受肉した神の子羊を中心とした天の礼拝そのものである一方、プロテスタント教会の礼拝が、牧師の説教中心である点に疑問を抱きます。そして、牧師の考えが教会の重要な要素になっているため、考えが異なると枝分かれしていき、次々と新しい教会が生まれてしまっていることに疑問を抱きます(一説では、3万もの教派があるとか)。カトリック教会は、二千年に渡り一つの教会であり続けているからです。

ハーン氏によると、旧約から新約にいたるまで、聖書全体のキーワードとなる言葉が、日本語で「契約」と訳される"covenant"。これは、「ビジネス的な契約」のことではなく、聖なる結びつきのことで、神と人間が家族という血縁関係に入るということ。

この「契約(covenant)」という概念が、旧約の時代から新約にいたるまで、聖書の根幹となっていて、「契約(covenant)」を通して、父親としての責任を果たしている姿が、時代を通して描かれています。アダムとの「契約(covenant)」は、「婚姻」、ノアとの「契約(covenant)」は、「一家」、アブラハムとの「契約(covenant)」は、「一族」、モーゼとの「契約(covenant)」は、「12氏族を通して一つの国となる家族」、ダビデとの「契約(covenant)」は、「王国としての家族」、そしてイエズスは、ユダヤ人も異邦人も関係ない「世界的な家族」とします。しかも、イエズスが「契約(covenant)」と語ったのは、ご聖体を制定されたあの時だけなのです。

また、イエズスや使徒たちも、家族関係を示す用語を多々使っています。「父である神」、「御子であるキリスト」、「初子」、「婚姻の宴」として表現される天国、「主の配偶者である教会」、「神の子とされたキリストを信じる者たち」・・・等々。そして、イエズスがもたらした「世界的な家族」は、各レベルにおいて、父親的存在を通して神の愛と掟とが神の子どもたちに示されます。それを図示すると、ピラミッド型になります。これはまさにカトリック教会の組織と同じ。よく批判の対象となるカトリックのヒエラルキー的な組織形態自体が、見事に聖書の「契約」が示す親子関係の姿になっているんです。教皇を表す"Holy Father"も"Pope"も、どちらも「父」という意味です。

蛇足ですが、ふふっと笑ってしまったのは、彼がカトリック的になりすぎていると危惧した奥さんが、他の著名なプロテスタントの神学者たちに、神学的に夫を助けて欲しいとお願いするのですが、彼らがハーン氏の間違いを指摘しようとカトリックの教義を研究し出すと、逆にカトリックの教義の正しさを見出してしまい、先にカトリックに改宗してしまう点です。アメリカでは、そういう改宗が増えているとのことです。

最終的にハーン氏は、ご聖体への渇きと神学的な確信とを得て、カトリックに改宗。敬虔な牧師の家庭に生まれ育った信仰深い娘であり、当初は夫のカトリックへの改宗を快く思っていなかった奥さんも、様々な葛藤を乗り越え、カトリックに真理を見出し、数年後に改宗しました。今では二人とも熱心なカトリックの護教論者。若者たちの主への情熱であふれたあのステューヴェンビル大学で教鞭を取っています。

ハーン夫妻の改宗へのドラマチックな道のりは、"Rome Sweet Home"に詳しく記載されています。比較的平易な英語ですので、誰にでも読みやすいと思います。その他にもたくさんの素晴らしい神学的著書を表してて、いくつかの本を読んでいるところです。日本語には「子羊の晩餐―ミサは地上の天国」が訳されて出版されているようです。彼の著書を読むと、カトリックに与えられている宝の素晴らしさ&尊さに気付かされると思います。また、それがプロテスタントから改宗した彼の望みでもあります。




ハーン氏の改宗の道のりをシェアした動画




アツく語るハーン氏




ステューベンヴィル大学での素晴らしい講話:過ぎ越しの犠牲について




若き信仰にあふれるステューベンヴィル大学!!




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