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Immanuel
jesus_sacred_heart


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「わたしは、世の終わりまで、いつもあなたたちと共にいる。」(マタイ28:20)

今日の福音の一節です。なんと素晴らしい約束でしょう。イザヤが預言したインマヌエル(私たちと共にいる神)は、たんに一緒にいてくれるだけでなく、「いつも」、そして、「世の終わりまで」一緒にいてくれるのです。これは、祈りのおいて、とても大事な事実となります。

神は、いつもそこにおられます。私たちが、祈りの内に深く潜心できているように感じるときも、喜びにあふれ賛美がほとばしるときも、祈っても無味乾燥で何も感じれないときも、疲れて、祈る気さえ起きないときも、神は、いつもそこにおられます。

私たちの心理状態や体調、感情は関係ありません。私たちの状態がどうであろうと、神はいつもそこにおられます。

だから、感情や感覚に流されず、どのような状態の中でも、単純に心の眼差しを神に向けるだけでいいんです。自分の状態を高めようとしなくて良いんです。ありのままの自分を差し出すだけ。それが、本当の祈りへの第一歩。



"and behold I am with you all days, even to the consummation of the world." - Matthew 28:20-

This is a verse from today's Gospel reading. What a great promise!! Immanuel (=God with us) that Isaiah prophesied does not simply with us, but "always" and "until the end of time". This fact is indeed important when we pray.

God is there always when we are deep in prayer, or when the praises burst out from our heart, or when we feel dull and cannot pray or when we are too tired to pray. God's presence is not influenced by our state of mind, physical condition and feeling. He is there always regardless of our condition.

So, do not be taken away by your feeling and emotion. No matter how you are, just simply lift up your inner eyes to the Lord. You don't have to be anybody. Offer yourself as you are. This is the first step of real prayer.


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Puer Natus est Nobis


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「闇に住む民は大いなる光を見た。死のかげに覆われた地に住む人々に光が現れた。(マタイ4:16)」


今日の福音のこの聖句が、昨日の3人の博士の来訪と礼拝とに結びつきました。彼らは、世に現れた神の光を目のあたりにし、人となった神である幼な子を礼拝しました。そして、その「礼拝」と訳されている言葉は、元々はギリシャ語で「προσκυνέω(プロスキュノー)」であり、「前に進み出てキスをする」という意味だそうです。


今日の福音の中の一節を黙想していると、一つのビジョンが心に浮かびました。目の前には、生れて間もない赤ちゃんがいます。小さくぷくぷくとした体。グーを握りしめた小さなお手て。パタパタしている小さなあんよ。そして、元気な泣き声。


どのような赤ちゃんも、この上もなく可愛らしく、無垢で、見る人の心をとろけさせ、幸せにしてくれます。見つめていると、自然と顔がゆるみ、ほほえみが浮かびます。


ただ、目の前にいるこの赤ちゃん。ひとつのことだけが、他の赤ちゃんと違います。彼は、その命の宿った瞬間から、自己実現のためではなく、他人のために生きているのです。人々の過ちを肩代わりし、自身が生贄となり、その小さな手と足は、やがて釘で貫かれ、人の救いのためにだけ脈打つその心臓は、最後には刺し貫かれるのです。


何度も転び、罪によって汚れ、不安や孤独の闇にいる自分。人となった神であるこの汚れない幼児にまみえるには、まったくふさわしくありません。しかし、彼は、招いています。恐れずに、その小さな両足、両手、心臓にキスするようにと。


己の惨めさを身に染みて感じながら、神の無条件の愛に心震えつつ、その気持ちを端的に表す祈り、「主、イエズス・キリスト、神の御子、私を憐れんでください。」という祈りを噛みしめながら、前に進み出て、救い主であるこの赤ちゃんにキスします。





"The people sitting in darkness has seen a great light, and to those sitting in the country and shadow of death, to them has light sprung up. (Matthew 4:16)"


A verse from today's gospel. It connects to the visitation/adoration of the Magi yesterday. By the way, the word translated as "to adore" originally means "to step forward and kiss" in greek (proskyno)" . While I was meditating on today's verse, a vision came into my mind.


There was a little chubby baby in front of me. his tiny fists were clenched. He was threshing his toots and was crying vigorously. All the babies are so innocent and so cute and they melt out heart and make us smile.


But, for this baby, one thing is totally different from the others. From the very moment when His human life started, He was always living for the others, not for Himself. He burdened Himself with the sins of the world and sacrificed Himself for our redemption. The little hands and toots would be pierced as well as His tiny heart, which was beating only for our salvation.


Often times, I easily yield to the temptations. I have been tainted by my numerous sins. I sometime find myself in the total darkness of solitude and anxiety. I am indeed unworthy to stand in front of the God incarnate, but this little baby is inviting me to kiss him, saying "have no fear. kiss my toots, hands and heart".


Humbly praying the Jesus Prayer, "Lord Jesus Christ, Son of God, Have mercy on me, the sinner.", while acknowledging my own misery, I step forward to kiss him in deep awe and love.





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Meet Me in Galilee



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月曜日の福音のある箇所をずっと思いめぐらせています。復活したイエズスが、墓に来た女性たちに、弟子たちにガリラヤへ行くように告げる場面です。

 

するとイエズスは、「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤへ行くように告げなさい。そこでわたしに会うであろう。」と言われた。(マタイ 28:10

 

マルコの福音書にも、同じような箇所が出てきます。伝言する側は天使ですが。

 

さあ行って、弟子たちに、特にペトロにこう言いなさい。「イエズスは、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。かねてから言っておられたとおり、そこであなたがたはイエズスに会えるでしょう」と。(マルコ16:7

 

復活後のイエズスは、なぜエルサレムでなくガリラヤで弟子たちと会われるのか?その理由は、聖書のどこにも記載されていません。

 

エルサレムからガリラヤ地方までは、100km強ほどの距離だそうです。だいたい人の歩く速さは4km/hなので、112時間歩いたとして、二日強かかります。決して近い所とは言えません。しかも、岩肌のごつごつした乾燥地帯ですから、旅も一苦労ではないかと思います。ちなみに、「ガリラヤ」はヘブライ語で「galil(ガリル)」で、「地区」や「地方」、「周辺」といった意味とのこと。エルサレムを中心としたユダヤ社会にとって、まさに辺境という感じなのでしょう。

 

さて、復活されたイエズスは、すぐに弟子たちに姿を示されるのではなく、なぜわざわざ遠いガリラヤで会われるのか?

 

ガリラヤは、弟子たちと最初に出会った土地だからではないでしょうか?初めて主と出会った時、弟子たちは、喜びに満たされていたことでしょう。そして、すべてを捨てて主に従うことを決心します。ですが、恐ろしい受難を目の当たりにして逃げた弟子たちは、悲嘆にくれ、希望を失い、信仰を失いかけていたかもしれません。しかし、ガリラヤにおいて復活した主に出会うことで、再び喜びに満たされ、原点に戻り、信仰を新たにするのではないでしょうか?ガリラヤは喜びの地であり、憩いの地であり、出会いの地であり、信仰を新たにする場所の象徴なのではと思いました。

 

また、私たちはイエズスを見失いかけたとき、エルサレムのような虚栄と雑音に満ちた環境ではなく、世俗的なことから離れた静寂さの中でこそ、イエズスと再会できるということも示しているのではないかとも思います。

 

この箇所を黙想して感じること、神学的な説明、その他もろもろ、ぜひコメントでシェアしてください!blog上でもこういう形でお互いの信仰を深めることができればと思います。








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Peter & Juda

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イエズスを裏切ったユダとペトロ。


ユダは奴隷の価格と同じ銀貨30枚で主を売り、ペトロは三度主を否定して逃げてしまう。しかし、二人とも人間である以上、救いのチャンスは最後の最後まであったはず。


二人を見つめるイエズスの眼差し。その眼差しは、咎を責め立てる眼差しではなく、人間の弱さを憐み、悲しみ、抱擁する眼差しであっただろう。


ヨハネは語る。ユダの裏切りに対し、主は「心が張り裂ける思いで」語られたと。

共観福音書では、ギリシャ語の「οὐαὶウーアイ」という言葉で、さらにユダへの憐れみが記されている。このギリシャ語は、「〜のことを考えると、胸が張り裂ける」という同情の悲しみ。ご自身の苦しみの真っただ中にあっても、いかにイエズスはユダを哀れまれ、ユダの魂が失われることをとても悲しまれたことか。


しかし、ユダはその愛の眼差し耐え切れず、絶望し、そして、おそらくそのプライドゆえに、イエズスに元に帰ることをしなかった。悪と闇の飲み込まれるまま、最後には首を吊って命を絶った。


ペトロは涙のうちに痛悔し、自分の弱さを認め、受け入れ、主のもとに跪き、主の愛の中に飛び込んで行った。主の赦しと愛に強められ、最後に彼は教会の基となった。


たとえどのような罪人でも、イエズスは哀れみ深く待っておられる。最後の最後まで、待っておられる。改心した者を主は赦し、受け入れるだけでなく、主の愛によって清め、さらに力づけてくださる。


だから、心に光を注いでくださる主の眼差しに、私たちは背を向けてはならない。




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Penitence
 
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■ 悔い改め ■ 

 

私自身の罪深さや惨めさを忌み嫌い、「あぁ!自分は全く進歩しない!」と悲しみに暮れる必要はない。


私たちは、あたかもセーターについた毛玉のように、罪をひつひとつをむしり取って投げ捨てること、掟をつつがなく守り、ファリサイ人のように常に清い人でいることにばかりを気にしていないだろうか?


その罪深さと惨めさゆえに、私たちは主を必要とし、私たちを主の憐みへとひきつけ、主を私たちにひきつける。もし、これらが有害なものでしかないなら、愛である神は、すでにそれらを私たちから取り上げておられるだろう。


だから、十戒に反したかどうかを数え上げるだけの悔悛は、意味がない。私たちがまず見つめるべきは、掟でも自分の罪でもなく、主の愛。主の愛の光のもとにこそ、私たちの罪深さをさらさなくてはいけない。


自分自身の不完全さ、いたらなさや弱さを、ありのまま認め、主の前に跪き、主に向かって心をあげ、主の憐みと愛が私たちのみじめさを満たしてくださるようにと祈り願おう。


そして、私たちの惨めさが、驚くべき主の愛の深さを私たちに理解させ、私たちの惨めさを通して、主の愛がより一層世界に輝くように願おう。


これがキリスト者の悔悛だろう。




// penitence //


Do not disdain your misery and sinfulness. Do not keep grieving that you do not progress in faith.


Aren't we focusing on counting up all the sins and trying to pick them as the lints ? Aren't we paying too much attention to follow the Law and keeping ourselves spotless as the Pharisees? 


Due to our misery and sinfulness, we need the Lord and we are drawn to Him, and they draws God to us, too. If the misery and sinfulness were nothing but harmful, our Lord who is love itself would have been taken them away.


So, if we are only counting how many times we have disobeyed the Ten Commandments, our penitence is meaningless. The first thing we have to put our eyes on is God's love, not on the Law nor our sins. It is under the light of His love, we have to expose our sins.


Accept our imperfection and weakness as they are. Kneel down before Him and lift up our heart to Him. Then, pray that God's love and mercy will fulfill our misery. Let our misery understand how amazingly deep His love.  Finally, pray that God's love will shine in the world even more through our misery.


This should be the penitence for the Christians.




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When God Works

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■ 主が働かれるとき ■ 

主が私たちのうちで働かれるとき、その働きはドラマチックではない。静かにささやかれ、気づかないうちに働いておられる。

エリヤは激しい風や地震や火の中でなく、静けさの中にささやく神の声を聞いた。イエズスは栄光ある王としてではなく、寒村の貧しい馬小屋の中で、人知れずに無力な赤子として来られた。

だから、信仰生活は、ドラマチックな感情や奇跡を求めてはいけない。心の中に静かにささやかれる主の声に耳を傾け、自分の中で静かに働いている恵みに目をむけなければ、何も起こらないといつまでも落胆することだろう。


// When God Works //

When God works within us, it is nothing dramatic. He gently whispers to us and secretly works among us.

Elijah did not find Him in the storm nor in the earthquake nor in the fire. He found God whispering to him in silence. Jesus did not come as a glorious king, but as a powerless baby born in a humble village without being noticed.

So, if we seek something dramatic in our spiritual life, we will get disappointed. Instead, we must turn our attention to our heart where God is whispering to us and is working quietly for us.



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