でも、実際は違っていたんです!
日本に戻ると、あまりにもモノや情報にあふれている物質的な環境に嫌気が差しました。そして、これまで遊びに行っていた場所には行けなくなっていました。行こうとしても、体が拒否反応を示すのです。
このことから、アドバイスとして言えることは、クラブや多くのバー、そして、いわずもがな風俗店などが密集しているような歓楽街には近づかないことです。なぜなら、目には見えませんが、こういう場所にはものすごく「良くないもの」が存在しているからです。そういった地域に近づくだけで体が拒否反応示し、急激に体調が悪くなります。霊的に敏感になったのだと思います。
また、これまで一年に何回祈るだろうというような自分が、朝、完全な沈黙の中で神と自分に向き合う時間を作らないとダメになっていました。それどころか、1日中、心の中でイエズスと会話するようになりました。聖書を読むと、そこに隠されている深い意味が心の中で響き渡るし、心が霊的なものをどんどん渇望するようになりました。
特に、沈黙の時間を作り、祈りのうちに神さまと、そして自分自身と対峙するということは本当に大切なことだと思います。モノや情報に溢れる現代社会、忙しさに流されっぱなしの現代社会、五感はあっぷあっぷ状態です。自分に立ち戻る時間を与えてくれません。「忙」とは「心」を「亡くす」ことです。心が死んだままで、一体何をするというのでしょう?
また、ずっと聖母が自分にとって中心だったのに、彼女はご自分の役目を終えられて、いつの間にか謙虚に身を隠されていました(もちろん今でも一緒にいてくださいますが!)。そして、あれだけ苦手だったイエズスが、とても自分に近くなっているのに気づきました。神の想像もできなくらい愚かなまでに深い愛がだんだん分かるようになってきたのです。
では、ボクは、浮世離れした仙人にでもなったのでしょうか?あるいは、狂信的な信者にでもなったのでしょうか?
いいえ。大切なのは、回心後でも聖人や狂人になるのでもないということです。見た目も、嗜好も、長所も短所も、そのままです。誘惑もたくさん。
でもそれでいいのだと思います。というのも、神さまはボクをボクとして創ってくれたわけですし、ありのままのボクを愛してくれているからです。ただ、歩んでいく「道」が完全に変わったのです。イエズスに向かって、イエズスの教えてくれたことに従って歩んで行く道に。自分の特性は何も変わっていないけど、愛のために自分の何かを犠牲にするということを学ぶようになったのです。そもそも「聖人」とは、何かとてつもなくすごいことをする人ではなくて、リジューの聖テレーズが言っている通り、「一番小さなことを愛を込めてする人」のことです。
同時にこの体験は回心の始まりに過ぎないということも分かりました。自分は信仰のスタートラインに立っているのであって、これが終わりではなく、日々前進していかなくてはいけないのだと。
回心直後は、すべてがバラ色に見えるものです。けれど、そんな神さまとのハネムーンの時期は遅かれ早かれ終わります。そして、無味乾燥な時期があったり、常に山あり谷ありです。
しかし、一つだけ明らかに不動なものがあります。それはどんな状況でも消えないイエズスとの結びつきです。
いろいろな奇跡(目に見える奇跡、癒しの奇跡、回心の奇跡)があるといわれるその村で、ボクは一度も目に見える奇跡は見たことありません。かれこれもう10回はメジュゴリエに行ってるんですよ!でも一度たりとも可視的で物理的な奇跡は見ていませんし、それどころか、自分には不要だと思います。奇跡を見ても心が変わらなくてはなにも意味がないですから。
そもそも、一瞬にして心が変わる以上に素晴らしい奇跡はないのではないでしょうか?その一番大きな奇跡が、ボクに起こったのです。
ボクがなぜこの村に行くよう強い促しを感じたのか、誰の目にも明白だと思います。
全ての出来事が見事につながっています。神さまはその人にとってベストなものをベストなタイミングにベストな方法で与えてくれるものです。人生は決してイジワルなものでなく、最良なものを用意してくれています。ただし、ココロを開いていなければ、それに気付くことはできません。
いつもネガティブな考え方をして常に斜に構えていた自分が、これほどポジティブ思考になったこと、そして、苦しさやツラさにも意味を見出し、人生の全てに感謝することができるようになったことに、まさに感謝です。
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